北島万次「(研究ノート)壬辰倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義――靖国神社にある「北関大捷碑」をめぐって」(『歴史学研究』639、1992 p.62 )

平成17年6月29日掲載

p.62

 この碑文はもともと朝鮮咸鏡北道吉州牧臨溟にあったものであるが、日韓併合の直前、靖国神社へもたらされたものである。

※「日韓併合の直前、靖国神社へもたらされた」について、論拠は提示されていない。おそらく後に北島の述べる1907年招来説に基づくと推測されるが、断定はできない。

p.68(1)

 日露戦争直後の1906(明治39)年1月刊の『歴史地理』8-1および翌年2月刊の『考古界』5-8はともに彙報「加藤清正撃退の碑」を載せている。それはほぼ同じ内容であり、今、『歴史地理』の一文によると、1907(明治38)年、北韓進駐軍令司官後備第二師団長三好成行中将が凱旋のさい、東京に土産として持ち帰り、振天府(明治天皇の意志によって日清戦争および台湾の役の戦利品を陳列するために皇居内に設けたもの)に献上しようとしたこと、さらに朝鮮より東京に運んだもうひとつの意図は「[朝鮮咸鏡道の]郡民が加藤清正撃退の紀念として建設した石碑[中略]の永存は両国間の感情を害するもの」であり、その撤去にあったことが判明する。

※西暦・和暦換算の誤謬や、雑誌刊行年の不理解、史料の妥当性などをひとまず問題としないとしても、北島は論拠として提示した『歴史地理』の記述を明らかに牽強付会している。たとえば、「振天府に献上しようとしたこと」と北島は主張するが、『歴史地理』の記述は「同将軍より帝室に献上したるやにて畏き辺りの思召を以て遠からず振天府に御陳列相成べしと、事の真偽未だ知れざるも記して以て後報を待つ。」であり、「事の真偽未だ知れざる」ことが明記されている。また、「朝鮮より東京に運んだもうひとつの意図」を「その撤去にあった」とする主張についても、『歴史地理』の記述は「池田旅団長が出征の際不図該石碑を発見し凱旋の砌り右石碑所在地の重立たるもの数十人を招き(中略)出来得べくんば該石碑を撤去せられん事を切望す云々との趣旨を諄々説きたるに彼等も大に少将の至誠に感じ、遂に之を撤去して少将に譲与せしより同将軍は深く彼等の厚意を徳とし三好師団長凱旋の節同師団長に託して東京まで持還へられたるものヽ由なるが」であり、撤去を石碑所在地の重立たるもの数十人に説き彼らに譲与された結果として「彼等の厚意を徳とし(中略)東京まで持還へられたる」のであって、北島の述べるがごとく撤去を意図して東京に運んだのとは読み取り得ない。

p.68(2)

 また、1978年、崔書勉は「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(『韓』Vol.7-No.2)を発表し、「北関大捷碑」の内容紹介とともに、この碑文が咸鏡道から靖国神社遊就館にもたらされるまでの由来を述べ、戦勝国の日本軍人にとって、過去の日本軍が負けたと記録のあることが彼らを不愉快にしたものと指摘している。

※より正確に言えば、崔書勉氏は「もたらされるまでの由来」ではなく「もたらされるという結果と、ことの起りを述べた」に過ぎない。「指摘している」との表現は、正当である。

p.70

 時まさに日韓併合の直前であり、「北関大捷碑」が朝鮮に置かれていることが、日朝両国民の感情を害するものとして、それを略奪し叡覧に供えようとした三好中将の意図とあわせて考えるとき、朝鮮の植民地化をめざしたかれらは、清正が鄭文孚に敗北した(日本が朝鮮に負けた)という史実を朝鮮民族の目から隔離することを意図したものといえよう。

※「時まさに日韓併合の直前」が妥当な表現とは思えぬが、北島の価値観に依拠する部分であり、また論拠の示されぬ憶説であるので、特に問題とはしない。しかしながら、その憶説を前提として主張を重ねたことは失考。また、北島が論拠として提示した『歴史地理』には、「池田旅団長が出征の際不図該石碑を発見し(中略)少将に譲与せしより同将軍は深く彼等の厚意を徳とし三好師団長凱旋の節同師団長に託し」とあり、北島の「略奪し叡覧に供えようとした三好中将」との主張は、そもそも成立し得ない。


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Last-modified: 2005-06-29 (水) 23:07:00 (4621d)