高麗磁器の盗掘と伊藤博文

平成17年7月29日

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高麗磁器の盗掘と伊藤博文

海を渡ってやってきた盗掘者
 一九世紀末から一九四五年までの間、韓国の近代史を徹底的にふみにじり、領土まで奪った日本帝国主義と、当時の日本人がおこなったさまざまな犯罪行為の実態をあきらかにし、記録しようとしても、いまとなっては不可能なことである。
 歴史遺跡の破壊と遺物の略奪、そして想像を絶する大量の文化財搬出の場合もそうだろう。日本人が残したわずかな記録と村人の目撃談でおおよその事実をつかみ、蛮行の一断面を知るのみである。
 しかしわたしたちは、わずかな証言と資料から、かつて日帝と日本人が韓国文化財にあたえた被害が、いかにひどいものであったかを十分に知ることができる。
 日本の本格的な韓国侵略とともに、一攫千金を夢みた日本人骨董商と掘り屋(盗掘を専門とする
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者)が、釜山や仁川港に群れをなして上陸しはじめた。かれらが、高麗王朝の首都であった開城周辺の王陵や古墳群を手あたりしだいにあばきはじめたのは、一九〇五年ごろのことである。目的は、日本人の間でむかしから珍品とされた高麗磁器の掘り出しであった。
 二〇世紀の新たな倭寇ともいうべき盗掘者たちは、銃で地域住民を威嚇し、高麗磁器の真価を知らなかった人々を、わずかな金銭で買収し盗掘をそそのかしたりして、開城・江華島一帯の数千基にのぼる高麗古墳を荒らしまわった。豊かな鉱脈を掘りつくすかのように、標的とした高麗磁器やはかの副葬品をごっそりと奪っていったのである。これは、日本による韓国文化財受難の初期にみられた最大の蛮行である。

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「掘塚するヤツ」
 韓国ではむかしから、王陵、庶民の墓を問わず、墓を掘ることは絶対に許されなかった。墓にたいする冒瀆は、韓国社会の伝統的倫理に反する行為の最たるものだったのである。韓国の庶民の問でむかしから使われた罵言雑言に「掘塚するヤツ」という表現があるくらいだ。ところが、日帝時代に入って、この「掘塚する」掘り屋が大挙して海を渡ってやってきたのである。
 日帝は、一八九四年の日清戦争と一九〇四年の日露戦争の勝利によって、韓国から露・清両国の勢力を一掃し、朝鮮半島の独占的な侵略と支配権を確保した。日帝の本格的な侵略にともなって渡来した日本人骨董商と、早くから入植し現地で盗掘のうま味を知っている盗掘者が古墳から発掘した高麗磁器は、ひとまずソウルに集められた。そこから大部分は日本へもち出されたのである。
 このころソウルには、盗掘品の高麗磁器を大量に購入する資産家の日本人蒐集家が数人いた。ある日本人の記録には、以前より高麗青磁の蒐集家と噂されていた鮎貝房之進、阿川重郎の名があげられている。また、開城から運ばれてきた高麗青磁を、ソウル忠武路の店先に山と積み、ソウル府内の日本人蒐集家や本国の好事家に販売をしていた近藤という骨董商がいた。一九〇五年一一月に武力による脅迫のもとで結ばれた「乙巳保護条約」以降、「保護政治」推進の旗ふり役として初代統監に就任した伊藤博文は、明治天皇や皇族への贈品として数千点にのぼる高麗青磁をもち出しているが、そのほとんどはこの近藤が斡旋した盗品であった。

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三宅長策「そのころの思い出」
 伊藤が初代統監として統監府に君臨した一九〇六年ごろ、韓国に渡ってきた日本人の一人に三宅長策という弁護士がいた。かれは開城からもち出された高麗青磁に日本で出会い、所蔵もしていたようだ。かれは後に韓国に来た動機をつぎのように書いている。
 「以前から私は、古陶磁器には特に深い感興を覚え、はるばる朝鮮に赴いたのも、ただただ、朝鮮古陶磁器への親愛の情に引かれてであった」
(訳者注 引用文はできるかぎり原文と照合し誤りを正した。出典文献を参照できなかった箇所はハングルからの日本語訳である。このため、全体の調子をそろえるため、引用文は新漢字・現代かなづかい・現代語調に統一した)

[当該記述及び引用原文は、以下の通り]
 私が朝鮮に赴任したのは明治三十九年、伊藤博文公が初代統監に就任された年で、その以前から私は古陶磁器には特に深い感興を覺え、はるばる朝鮮に赴いたのもたゞたゞ朝鮮古陶磁器への親愛の情にかれてゞあつた。

 三宅は当時、韓国で悪行のかぎりをつくした日本人無頼漢とくらべれば、それでも良識をもった知識人と言える。だがかれも、ほかの日本人と同じように高麗磁器を安く買い入れ、愛玩物にしようとした人物にちがいはない。そうした三宅からみても、そのころの盗掘状況は、じつに深刻な事態と映ったようで、三十年後に当時の盗掘のありさまをくわしく書き残している。
 つぎの引用文ほ、三宅が書いた「そのころの思い出 高麗古墳発掘時代」(『陶磁』第六巻六号、東洋陶磁研究所刊、一九三四年一二月)という回想記からの抜粋である。
 「(一九〇六年ごろ)骨董屋といえば、京城にたった一軒、近藤という店があっただけで、其他には、高橋というもの、是は店を持たずに高麗焼を買入れては、吾人に売り付けて居た……高橋と
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いうのは、もと巡査をして永く開城方面に勤務していたらしい関係から開城付近で掘り出したものを、ちょいちょい自ら開城に出向いて買い集めて来た。……近藤の店には……高麗の発掘物が出ると珍らしいので、すぐ、誰かが持って行ってしまった。これに味をしめて、誰が慫慂したものか、その後、店先に列ぶ高麗青磁の数が日増しにだんだん多くなってきた」

[引用原文は以下の通り]
 未だ高麗惻Г寮ご屬泊曚れる以前のことで、當時旣に鮎貝房之進、阿川重氏等一二のコレクターはあつたが、未だ古陶磁に關心をもつ人は京城にはゐなかつた骨董屋といへば京城にたつた一軒近藤といふ店があつただけで、其他には高橋といふもの、是は店を持たずに高麗燒を買入れては吾人に賣り付けて居たもの位いで、今日朝鮮古陶磁愛好熱の盛んなのにくらべれば眞に隔世の感がある。
 高橋というふものはもと巡査をして永く開城方面に勤務してゐたらしい關係から開城付近で掘り出したものをちよいちよい朝鮮人が持つてくるのを買ひ取り又は自ら開城に出向いて買ひ集めて來た。近藤の店には當時主として白高麗と稱する支那の建白、呂均、朱泥の類とか日本の抹茶器類が列べてあつたが高麗の發掘物が出ると珍らしいのですぐ誰かゞ持つて行つてしまつた。これに味をしめて誰が慫したものかその後店先に列ぶ高麗惻Г鱗砲日瓩靴砲世鵑世鸞燭なつてきた。

※「当時」に於いては高麗青磁は日本人からもほとんど顧みられていなかった。だからこそ「骨董屋といへば京城にたつた一軒」なのであり、「今日朝鮮古陶磁愛好熱の盛んなのにくらべれば眞に隔世の感がある」と三宅は述べるのである。この近藤の店は「當時主として白高麗と稱する支那の建白、呂均、朱泥の類とか日本の抹茶器類が列べてあつた」のであり、その中にあっては「高麗の發掘物が出ると珍らしい」のである。
 また、高橋の高麗青磁買い取りについては「ちよいちよい朝鮮人が持つてくるのを買ひ取り」が注記なく欠落している。
 高麗青磁が「当時」から珍重され、日本人によって盗掘されたという印象を生み出す為に、引用時に恣意的な省略を行ったものか。

 三宅が描写したこのころのソウルでは、博識な韓国人であっても、高麗青磁の存在とその価値について十分な認識と知識をもっていなかった。高麗青磁を手にとってみたことすらなかったくらいである。高麗青磁は、日本人が墓室内から勝手に掘り出し、日本人の間だけで売買される珍品とされていた。
 三宅は、高橋から聞い話として、つぎのようなエピソードを語っている。
 「また、ある時、博識の朝鮮人が来たので手元にあった高麗青磁を見せたら、これは一体どこのものだと珍らしがるので、開城で出土した高麗ごろのものだと説明したら、吃驚したという状態であった」

[引用原文は以下の通り]
 然し當時京城では三島といふ名稱さへ知る人のないといつた有樣で、これは其後二三年たつての高橋の述懷だが、ある時私が「この三島の茶盌はいくらだ」とたづねたので始めて三島といふ名前を知り、其茶碗に三本白い條が入つてゐたからそれで三島といふのだと思つたそうである。又ある時博識の朝鮮人が來たので手元にあつた高麗惻Г鮓せたら、これは一體どこのものだと珍らしがるので開城で出土した高麗頃のものだと説明したら吃驚したといふ状態であつた。

※「当時」に於いては高麗青磁の価値を知らぬのは日本人も同様である。これは、前引部分と合わせて考えれば、さらに自明であろう。三宅は、「当時」に於いては日本人を含めて高麗青磁を顧みていなかったことを述べているのである。  李は「高麗青磁は、日本人が墓室内から勝手に掘り出し、日本人の間だけで売買される珍品とされていた」と断ずるが、これは恣意的な誤読であり、前引資料に在る如く「ちよいちよい朝鮮人が持つてくる」のであり、「當時主として白高麗と稱する支那の建白、呂均、朱泥の類とか日本の抹茶器類が列べてあつた」中に於いては「珍しい」にすぎないのである。

伊藤博文の蒐集から盗掘ブーム
 三宅の証言によれば、日本人による盗掘と蒐集が絶頂に達したのは、伊藤が統監を辞任した一九〇九年ごろであるという。しかし、盗掘が絶頂期を迎える以前に、伊藤がソウル府内の高麗磁器をどんな方法で集め、もち去っていったかについても、三宅はじつに丹念に記録している。

[当該記述は、以下の通り]
 その後高麗惻Г僚集が漸々と盛んになつて、明治四十四五年伊藤公がやめられる頃がその高潮期だつた。

※三宅の「証言」によれば、「蒐集」が「高潮」するのは明治44年・45年(1911〜1912)であり、それが「伊藤公がやめられる頃」であると述べているのである。李は、朝鮮文化財と伊藤博文を連関させて語ろうとする意図からか、読み誤ったのであろう。

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 「しかし、その文化の関係とか芸術上の優秀を感じて、これをあつめるという人は稀で、多くは……内地からきた人や官を辞して去る人への贈物としてあつめた。……高麗青磁なら内地に持って帰っても珍重されるというので人参(朝鮮人参)とともに識者間では盛んに贈答品とされたものである。
 伊藤公も人に贈る目的で、盛んにあつめられた一人で、一時は、その数、数千点以上にものぼったであろう。そのころ新田という人があった。公の宴席に侍して毎に歌ったり踊ったりして座興を助けていた男だが、後に旅館を開業した。ここに公は、暇があれば行かれて、新田の手で、いくらでも高麗焼を持ってこい、あるだけ買ってやるといった調子で、どんどん買上げ、それを又、右から左へ三十点、五十点と一気に人に贈って仕舞われた。或る時などは、近藤の店の高麗焼をそっくりそのまま買い取られたことがあった。京城内、これがため一時、高麗焼の売品の影を絶つに至ったようなこともあった」

[引用原文は以下の通り]
然しその文化の關係とか藝術上の優秀を感じてこれを蒐めるといふ人は稀で、多くは漠然と珍貴なものに考へるとか、人が蒐めるから蒐めるとか、又は内地からきた人や官を辭して去る人への贈物として蒐めた。當時朝鮮には全くこれといって土産贈物とするべきものがなかった。人形や巾着や玩具などでこれはと思ふものは大阪邊りで朝鮮向に作つたものが多く、高麗なら内地に持つて歸つても珍重されるといふので、人蔘と共に識者間では盛んに贈答品とされたものである。
 伊藤公も人に贈る目的で盛んに蒐められた一人で、一時はその數千點以上にものぼつたであろう。そのころ新田といふ人があつた。公の宴席に侍して毎に歌つたり踊つたりして座興を助けてゐた男だが、後に旅澆魍業した。こゝに公は暇あれば行かれて新田の手でいくらでも高麗燒を持つてこい、あるだけ買つてやるといつた調子でどんどんと買上げ、それを又右から左へ三十點、五十點と一氣に人に贈つて仕舞はれた。或る時などは近藤の店の高麗燒をそつくりそのまゝ買ひ取られたことがあつた。京城内これがため一時高麗燒の賣品の影を絕つに至つたやうなこともあつた。

※「漠然と珍貴なものに考へるとか、人が蒐めるから蒐める」程度の代物であり、「内地からきた人や官を辭して去る人への贈物として蒐めた」ものでもある。この理由は「當時朝鮮には全くこれといって土産贈物とするべきものがなかった。人形や巾着や玩具などでこれはと思ふものは大阪邊りで朝鮮向に作つたものが多く」、土産にならないからである。なればこそ、「高麗憑なら内地に持つて歸つても珍重される」のであって、高麗青磁に求められた役割は「人形や巾着や玩具など」と何らかわらぬのである。伊藤博文が高麗青磁を集めたのも、斯様な状況に於いて「人に贈る目的」なのである。

さきに述べたように、伊藤博文ほ韓国の国家権力を完全に奪った侵略の最高指導者であった。そして、開城一帯の高麗古墳群の破壊と盗掘を助長させた張本人でもあった。それはまさに、かつて壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のとき、豊臣秀吉が武将に命じておこなわせた大規模な文化財略奪と遺跡破壊の再現であった。
 このように伊藤が、高麗青磁を数千点以上買い取ったことから、みさかいのない盗掘ブームが出現し、ソウルと本国の日本人の間で高麗青磁の商いと蒐集が一大盛況となったありさまを、三宅は
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つぎのように書いている。  「(伊藤が骨董店の高麗青磁をまるごと買い取ったのち)この景気に刺戟されたものか、ここに高麗青磁狂時代が出現して、一時、これによって生活するもの何千人といわれ、従って盗掘された開城、江華島、海州方面の大小の古墳の数は驚くべきものだとのことである。
 古くは秀吉征韓役の時にも、高麗古墳のいくつかが発掘されて、今日わが国へ伝存する雲鶴青磁……の名物は、当時の招来に係るものが多いということである。しかし、一般に朝鮮は……祖先への敬心深く、特に墳墓は、これを大切にする習慣があり……夢にも、これをあばいて古い事実を究めようとか、或いは古器物を発掘してこれを楽しむといった考えは、毛頭ない。これは、春秋の筆法で言えば、日本人が発掘したのである」

元平壌博物館長小泉顕夫の証言
 日本人みずからが告発調でこのように語っているくらいだから、実際のありさまはもっと悲惨であったにちがいない。しかし三宅は、一方で「盗掘の下手人は、いつも朝鮮人だった」とも言っている。それが事実かどうかはさておいて、もしそうであったとしても、銃をもった日本人の脅迫と多少の金銭にまどわされて、やむなく加担したのだろう。韓国人ならば誰しも最も忌み嫌う「掘塚」を住民にそそのかし、まんまとせしめた出土品でばく大な利益を得たのは、けっきょくはいつも日本人だったのである。
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 盗掘者はまず、開城一帯の古墳の所在に精通することに努めた。そうして、ソウルの日本人骨董商と蒐集家によって販路が拡大していることを念頭におきながら、盗掘の範囲を開城から江華島、そして海州へと広げていった。かれらの計画的行動により、高麗古墳の全域が乱掘にさらされることになる。
 さらに、盗掘集団は日を追うごとにふえていく。はじめは「韓国人の下手人」を表に立て、犯行を裏であやつっていたが、しだいに直接墓に手をつける者がふえていった。
 三宅もその事実を否定できず、しぶしぶながらも「或いは、その最高潮期には、日本人も参加したかも知れぬが、日本人は、後方にあって出てきたものを買いとっては、在鮮好事者の間を持ち回り、よって利益を収めていたものである」と記している。

[引用原文は以下の通り]
この景氣に刺戟されたものかこゝに高麗惻Ф源代が出現して、一時これによつて生活するもの何千人といはれ、從つて盜掘された開城、江華島、海州方面の大小の古墳の數は驚くべきものだとのことである。
 古く秀吉征韓役の時にも高麗古墳のいくつかが發掘されて今日我國へ傳存する雲鶴惻や狂言袴の名物は當時の將來に係るものが多いといふことである。然し一般に朝鮮は純然たる族制時代で祖先への敬心深く特に墳墓はこれを大切にする習慣があり、春秋には塋域を譱櫃靴萄怎を營み、一族相會して飮食し、夢にもこれを發いて古い事實を究めやうとか、或ひは古器物を發掘してこれを樂しむといつた考は毛頭無い。これは春秋の筆法で言へば日本人が發掘したのである。然しその直接下手人は終始朝鮮人であつた。或ひはその最高潮期には日本人も參加したかも知れぬが日本人は後方にあつて出てきたものを買ひとつては在鮮好事者の間を持ち廻り、よつて利困鰄世瓩討陲燭發里任△襦當時朝鮮人は李朝末期の苛政に苦しめられ疲弊の極に達してゐた。其の上に日韓合併以前から文武兩斑其職を失ふもの次第に甓辰掘朝鮮全土は窮民で滿ち溢れてゐるといふ状態であつたから、兎に角掘ればいくらかの金になるといふので古墳發掘は朝鮮人に一の職業を與えた有樣であつた。又一つには墳墓とはいへ旣に古く無縁となり、全く荒廢し盡して茫々たる草野と化してゐる。嘗ては土饅頭があつてその墓所たることを表示してゐたが永き歲月の間に全くの平地となり、却つていさゝかの凹地となつていてこれが古墳を探知する手掛となつたとのことである。然し流石に白晝は公行せず發掘の初期未だ禁令のやかましくない頃でも多くは夜中ひそかに發掘したそうである。かうして鮮人の掘り出したものを買ひ收るを營業とした一群の日本人がゐた。始めは開城へ人蔘商賣で一儲しやうと蝟集した連中で、時々買ひ集めたものを提へて京城に出、好事者の間を持ち廻つてゐたものである。骨董屋とも云へないほんの素人商賣だつたので、掘つたまゝ土のついてるのを新聞紙などでくるんでさげてきてゐた。

※三宅は朝鮮では「これを發いて古い事實を究めやうとか、或ひは古器物を發掘してこれを樂しむ」、つまり学術調査や古美術の鑑賞を行おうとする「考は毛頭無い」とは述べているが、盗掘を行わないとは述べていないのは、重要な一点であろう。その上で、あくまで「春秋の筆法で言えば」日本人が墳墓を発掘したことにはなるが、「直接下手人は終始朝鮮人」と指摘するのである。三宅は、朝鮮人が下手人となった理由を「當時朝鮮人は李朝末期の苛政に苦しめられ疲弊の極に達してゐた」「日韓併合以前から文武兩斑其職を失ふもの次第に甓辰掘朝鮮全土は窮民で滿ち溢れてゐる」「兎に角掘ればいくらかの金になるといふので古墳發掘は朝鮮人に一の職業を與えた有樣」「墳墓とはいへ既に古く無縁となり、全く荒廢し盡して茫々たる草野と化してゐる」と述べており、李の主張は、三宅の著述と整合しない。
 また、李は「まんまとせしめた出土品でばく大な利益を得たのは、けっきょくはいつも日本人だったのである」と断ずるが、三宅は当時の日本人による青磁販売の様子を「始めは開城へ人蔘商賣で一儲けしやうと蝟集した連中で、(中略)骨董屋とも云へないほんの素人商賣だつたので、掘つたまゝ土のついてるのを新聞紙などでくるんでさげてきてゐた」と記しており、その商売の規模の小なることを記している。
 当時の朝鮮人が、美術品への関心は問わぬとして、墳墓を発掘したことについては「其の他の地方に於ても、かなり古い時代に盜掘破壞されたものが多いが、是等は主として無智な地方土民の單なる好奇心や、建築材料としての石材、瓦塼を取る目的の下に行はれたものゝやうである。」(小泉顕夫「古墳発掘漫談」『朝鮮』1932.6)との指摘があり、建材として出土文物を用いることについては「十二月十一日、中食後、慶州博物館を出て西岳方面に向かった。(中略)武烈王陵の社が視野に入ってくるあたりまで来たとき、(中略)白衣の人たち六、七人が集まって、何やら声高に話しあう様子がみえた。近寄ってみると、そこの楼門の下で、壁にもたせかけた平たい石が話題になっているとわかった。この板石は概略、縦六〇センチメートル、横一〇〇センチメートル、厚さ一八センチメートルの大きさであった。(中略)集まっている村人たちの話を聞いた李雨盛君によると、このような板石は温突を築くのに適しているから、持ち去られる心配があるという。」(有光教一「私の朝鮮考古学」『朝鮮学事始め』青丘文化社、1997.4.2)などの指摘がある。

(p.21)
 三宅以外の日本人の記録に、一九三〇年代に平壌博物館長であった小泉顕夫のつぎのような証言がある。
 「(古墳が)近頃の様な惨状を呈するに至ったのは、何と云っても、併合前後から、内地人が朝鮮の田舎にまで入込む様になってからの事で、一攫千金を夢みて渡来した彼らが、金のサバリ(茶碗)が埋められてあるとか、正月元旦には金の鶏が墓の中で鳴くとかいう伝説の古墳を近頃流行の金山でも掘る様なつもりで掘り回ったらしい。所に依っては、当時、各地に駐屯して居た憲兵にまで彼らと行動を共にする者があったというのだから堪らない」(「古墳発掘漫談」『朝鮮』朝鮮総督府編、一九三二年六月号)

※本記述は、「何と云っても」が原文では「何人と云つても」であることを除けば、正確である。ただし小泉「古墳発掘漫談」の構成から言えば、恣意的な抽出と言うべきであろう。小泉は当該の記述のある第一節を「最近の新聞記事に、慶北地方のお寺の佛樣を盛んにかつ拂つて居た泥棒がつかまつて、」と書き始め、その朝鮮人盗掘団が「失業恐慌時代のこの時世でも、尚盛んに猛威を逞しくして居る。今度つかまつたのも、卽ち其の一味なのであらう。」と結んでいる。
 また、朝鮮に於ける盗掘についても「其の他の地方に於ても、かなり古い時代に盜掘破壞されたものが多いが、是等は主として無智な地方土民の單なる好奇心や、建築材料としての石材、瓦塼を取る目的の下に行はれたものゝやうである。」と述べた上で「餘程の下級な無知な者でなければ、かゝる事を敢えてしなかったに相違ない」と述べている。換言すれば、「下級な無知な者」によって「好奇心や、建築材料としての石材、瓦塼を取る目的の下」に「盜掘破壞」が行われていたと述べているのである。そして「近頃の樣な慘状」、すなわち古文物や古美術品の発掘を目的とする盗掘の話として、当該の記述を行っているのである。しかも、いずれも「らしい」「あったというのだから」と付している。
 なお、当該の記述の後段には、「しかしこの種の盜掘は其の後次第に陰を潛めるに至つたが、其の代りに所謂「堀屋」と云ふ職業的な盜掘團が出來上り、又其の「掘屋」仲間からは、内地人の影が無くなり、彼等に外蕕気譴芯鮮人が代る樣になり、失業恐慌時代のこの時世でも、尚盛んに猛威を逞しくして居る。今度つかまつたのも、卽ち其の一味なのであらう。」とある。すなわち、日本人の影響ではじまった「らしい」古文物・古美術品の発掘からは、小泉の直接知る限りでは「内地人の影は無く」、主体は「朝鮮人」であって、「尚盛んに猛威を逞しくして居る」のである。
 付言すれば、小泉は次節において、朝鮮人盗掘者が、小泉の行った遺跡発掘調査の際、朝鮮人人夫を指示し、盗掘の痕跡の発見を遅らせようとする様を経験談として述べ「畢生の智惠を絞つて、私の言語不通なのを幸に、人夫達を籠絡して、とんでも無い處を掘らせようと努力したものらしい事がわかつた」としている。


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Last-modified: 2005-08-05 (金) 01:01:56 (4823d)