七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(『韓』7-2、1978)

平成17年6月11日掲載

 旧韓末、明治四十年頃、日本に留学していた韓国人学生に関する資料を検べている中に、嘯海生と号する学生の「咸鏡道壬辰義兵大捷碑文」と題する興味深い文に接することができた。
 その冒頭に「(中略)距今六年前、日本に池田○○暗かに偸来し、彼の国の靖国神社(わが奨忠壇の如し)後院に移置せる故を見、所感あり、ここに謄写す」と書きはじめ、碑文を紹介し、(中略)

※北関大捷碑の冒頭は、正しくは「有明朝鮮国咸鏡道壬辰義兵大捷碑」である。『大漢和辭典』によれば、「有明」は「明朝をいふ」。

 最後に、社務所を訪ね、神主さんに来意を告げた。昔の靖国神社は現在よりも広く、現在の法政大学校舎も元は神社の境内であったが、そこにあった能楽堂も今の本殿の前方に移したので、あるいは後院といえば、そこをさすのかも知れないという不安な返答であった。また嘯海生は、距今六年と言っており、しかもこの文が載っている文献は、明治四十二年(一九〇九)となっているので、明治三十六年頃の資料を探すようにお願いして社務所を出た。

※この記述に従えば、嘯海生が述べた6年前とは1903年であり、執筆から発行までの期間を勘案すれば更に以前の可能性もある。後に崔は「1905年北関大捷碑発見」説を主張するが、この場合、嘯海生は該碑発見以前に靖國神社で該碑が偸来されたと述べていることとなり、矛盾を生じる。崔はこの点に関して、特に問題を提起していない。

(中略)
 この両学会誌の述べていることから知り得たことは、次のような内容である。
 明治三十七・八年の日露戦役において、北韓進駐軍司令官後備第二師団長、三好成行中将の麾下軍隊は、露西亜軍を豆満外に圧迫するために北韓に進駐していたが、第二師団傘下の第十七旅団長、池田正介少将が咸鏡道臨溟駅にある「北関大捷碑」を発見し、所在地の主たる者、数十名を招き、諒解を得て三好中将の帰国に託し、明治三十八年十月二十八日広島に着き、翌年五月二十七日東京湾に着き、宮城内の振天府に陳列されるとのことであったが、最後に遊就館に移立したことになっている。池田少将の諒解とは、地元の主たる人々に「日本は、朝鮮国の独立のため、日清戦役と日露戦役の前後二回も大戦争を為したるが、今や、幸に交戦の目的を達し、日韓両国の親睦を永遠に保つ上において、このような記念碑を永存することは、両国間の感情を害するべき因たるに過ぎざるに付、出来得べくんば、この石碑を撤去せられんことを切望すとの趣旨を諄々説きたるに彼等も大いに池田少将の至誠に感じ、遂に之を撤去して池田少将に譲与せしより同将軍は深く彼等の厚意を徳とし、三好師団長凱旋の節(ママ)し同師団長に託して、東京まで持還へられたるものなり」となっている。この記事の内容の真偽を問うことは、今更意味があるとは思えない。日清、日露戦役の直後においては日本軍は、天皇の開戦詔勅通り、韓国の独立のためであると信じていた韓国人が多かったからである。伊藤博文を暗殺した安重根でさえ、日露戦争は韓国の独立のためだと信じ日本軍に協力したことがあるほどであるからである。
(中略)
 私見としては、日露戦役の頃、北韓に進駐していた師団は、露西亜軍との接触が少なかったので、戦利品らしきものがなかった。そこでこの碑石は戦利みやげとしては恰好のものであったのではなかったかと思われるのである。実際、奉天地区に進駐した軍からはこのような碑石持入りの話はなく、戦闘に使われた戦利品が主にもたらせていることからも、そのように考えられるのである。


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Last-modified: 2005-06-29 (水) 22:18:51 (4858d)