小田成光「人黙すとき石また叫ぶ――壬辰義兵大捷碑返還への旅」(『法律時報』65-7、1993.6 )

平成17年6月29日掲載

※論証部分がなく要約困難な為、言説整理に関係在ると思われる部分を引用した。

p.108-

出会い
 渡辺卓郎弁護士が、はじめてそのいしぶみ(石碑)の前に立ったのは、今から五年前、一九八七年の晩秋の頃であった。
 そのいしぶみは、法律事務所から指呼の間にある九段靖国神社の境内、本殿北側の遊就館(軍事遺品陳列所)の前庭植込の奥に、人目をしのぶかのように寂しく佇立していた。(後略)
 その前日、事務所を訪れた一言院の松井勝重住職の話によると、そのいしぶみは、わが国では文禄慶長の役として知られ、南北朝鮮では壬辰丁酉の倭乱、または龍蛇の乱と呼称されている秀吉の朝鮮出兵に際し、各地で抗日レジスタンスに立ち上がった義兵の顕彰碑の一つと考えられ、おそらくは、日清・日露戦役の戦利品として、朝鮮半島から掠取されたものではないかということであった。
 松井住職の相談は、朝鮮民族の貴重な史跡であり、文化遺産であると考えられるこのいしぶみは、本来そのあるべき場所に返還、安置されるべきであり、いしぶみの存在を伝え聞いたわが国仏教界の有志も、その返還のための市民運動を発起したいが、それについての渡辺のアドバイスを得たいとのことであった。そうした相談が渡辺に寄せられたのは多分、渡辺がかつてベトナム梵鐘返還運動―第二次世界大戦の直前、ベトナムに進駐していた日本軍が持ち去ったハノイ東北のバクニン地方にある五戸寺の寺鐘が、銀座の美術商の店頭で発見され、これを平和と友好のあかしとして一九七八年ベトナムに返還した市民運動―の中心となったことなどを念頭において、なされたものに相違なかった。
調査への旅
 仏教美術の研究家、蒐集家としても知られる渡辺は、その長い経験から、こうした事に臨んだ場合、自らに課す戒めがあった。何よりもまず対象となるものの徹底的な調査研究がそれであった。渡辺は、松井住職の志を多とするとともに、いしぶみそのものについて正確な解明と、それが現存する場所にある由来を可能な限り調査することを約したのであった。
 こうして今、いしぶみを前にする渡辺の脳裏を、はるか四百年前の壬辰丁酉の倭乱=文禄慶長の役についてのさまざまなイメージがめぐり、よみがえるのであった。
 戦国時代の戦乱の中できたえられた豊臣の奇襲軍団は、二百年の泰平になれ、ほとんど無防備ともいうべき李朝朝鮮の国土をあたかも無人の野を征くが如くに北進した。その道すがらの城壁はもとより、名刹仏国寺をはじめ、名だヽる寺院や伽藍も手あたり次第焼き払い、おびただしい貴重な文物を掠取した。京都の「耳塚」の存在に象徴されるような大量虐殺と陵辱、数知れぬ工人・技術者の日本への強制連行は、その後長期にわたり隣国の社会発展の重大な足かせとなった。殺しつくし、焼きつくし、奪いつくすという豊臣軍の作戦は、昭和一五年戦争期における大陸三光作戦のさきがけともいいうるものであった。
 他方、強制連行された工人・技術者たちによって移植された高度な技術は、やがて、有田・薩摩・鍋島の陶芸に代表される、あの絢爛たる江戸期の工芸文化として花開くのであった。
 そのいしぶみは、高さ一八九センチ、幅六六センチ、石の厚さは一三センチであり、碑の上部には、巨大な庭石が帽子のようにかぶせられており、あたかも大きなきのこを思わせた。「北関大捷碑」と横書きされた碑の前面、後面には縦書きで一四〇〇字余の漢字が白文で刻まれていた。
 ほどなく渡辺は、このいしぶみの調査への協力を快諾してくれた二人の得がたい研究者を得た。アジア史の碩学として知られる後藤均平教授とその助手役の林正子女史である。「ベトナム梵鐘返還運動」をともに担った同士でもあった。
(中略)
 この研究チーム発足後半年を経た一九八八年六月にいたり、ついに後藤・林チームはこのいしぶみの足どりについての詳細な研究が既に一〇年前に、ほとんどあますところなく完結している事実をつきとめるに至った。
崔論文
 東京韓国研究院の崔書勉博士が、一九七八年三月に刊行された雑誌「韓」に発表された論稿「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷の碑」がそれであった。

※「大捷の碑」は「大捷碑」の誤記 (中略)

 崔博士がその論稿の典拠とされたのは、明治三九年に刊行された「考古界」「歴史」「地理」等の学術誌であった。さらにこの論稿は、いしぶみがおそくとも明治四二年に、嘯海生と号する朝鮮人留学生によって現在地に確認され、その発見に衝撃を受けたこの憂国の青年が同胞の覚醒、奮起をうながした遺文が博士の目にとまり、再発見、研究の端緒となったことを伝えている。

※出典を「歴史」「地理」(正しくは『歴史地理』)と記すなど、崔の誤植を継承しており、原典を確認していないことは明か。また、嘯海生の石碑「発見」年次の不整合については、何ら指摘をしていない。

 (中略)
 崔論文を契機として、このいしぶみの存在は、次第に隣国の識者に広く知られるにいたり、南北の両政府も、国宝的価値ある歴史遺産として、さまざまな機会にその返還を求めていることも、やがて渡辺らの知るところとなった。
 一九九〇年八月一六日の毎日紙は、韓国大使館筋からの照会に対し、日本政府が「元来北朝鮮の地にあったもので、韓国への返還は難しい」と難色を示しているとの記事を伝えている。
 いしぶみをめぐる事実関係のすべてをできる限り究めたいとする後藤チームにとって、残された課題は、当時の記録から推して靖国搬入の前に一旦東京港から直接搬入された可能性も考えられる宮城内の「振天府」の解明であった。
振天府
 この耳なれぬ「振天府」とは果たして一体何であろうか。渡辺が入手した昭和前期に刊行された「増補皇室辞典」には、宮城内の造営物について次のような記述がみられる。

※国立国会図書館蔵書検索によれば、井原頼明著『皇室事典 増補(版)』(富山房)1943が該当すると思われる。「辞典」は「事典」の誤記であろう。ただし、当該時期を調べるのであれば、本来同1928年版を参照すべきである。

 (前略)いわば一種の軍事博物館といえよう。
 先頃後藤教授が発表された随筆「振天府」によれば、この御府六棟の建物は、米軍空襲をまぬがれ、今日なお従前のまヽ現存しているとのことである。かつてこの軍事博物館に、おそらくは戦利品、献上品として収納されていたであろう隣邦諸国の貴重な文化遺産は、果たして今もなお宮城内に存置されているのであろうか。

※国立国会図書館雑誌記事情報には、後藤随筆は確認できない。

 戦後、国有財産に編入されたはずのこれらの文化遺産等は、その所在が何処にあれ、わが国内に現存するならば、戦後補償の精神、法理からして、当然、被掠取国への返還論議の対象となるべきものといえよう。さらにまたわが国近現代史の汚辱ともいうべき軍事掠取品や軍事博物館が、今日もなお戦前同様、宮城内に存置されているとするならば、これが現憲法下における象徴天皇制と決して併存をゆるされぬことは明かといえよう。
 歴史の闇に埋もれていた「振天府」の究明という思わざる副産物を伴いながら、いしぶみの歴史を探る旅は、返還運動への旅立ちを残して今一応の完結を見ようとしている。
(以下略)


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