第1章 大規模戦闘の終焉

NAVER総督府史料本廠刊
平成17年6月10日

青山里への出兵と第1次会戦

 2003年9月27日〜28日、日本側SS20と韓国側lch009がカルチャー 板青山里付近で衝突。同日、kimuranobuo参戦。

吹き飛ぶシン・ヨンハ論文

 9月29日、NAVERカルチャー板において韓国側重鎮dymaxionがシン・ヨンハ論文及び「朝鮮独立運動の血史」に依拠する青山里大捷に関する一大要塞を建設、重鎮の参戦にNAVER韓国人の士気大いに高揚する。

 kimuranobuoが佐々木論文の要旨及び第19師団戦闘記録を投入。dymaxionの論陣の一角を突破。oppekepe参戦。keelshoyuらがこれを支援。dymaxionの兵力算定の錯誤を攻撃するとともに間島出兵史を投入し、シン・ヨンハ論文の核心部分に突入。dymaxionは、10月1日までに兵力算定等に関する当初のシン・ヨンハ論文への依拠を放棄して複郭陣地に後退、態勢の立て直しを図った。

第2次会戦 dymaxionの逆襲

複郭陣地へ退却するdymaxion

 10月初頭、韓国側mettalikamalooseyumipop等が参戦しdymaxionを増援する。
一方、日本側は当時無名のjpn1_rok0らが参戦、dymaxion包囲網が完成する。

 同月上旬、dymaxionは金佐鎮記念事業会のHPより入手した「青山里大捷で撤退する日本軍」とキャプションが付けられた写真を提示し攻勢に転移。peachboyがこれを迎撃するが阻止に失敗。dymaxionの突進を許す。10月3日jpn1_rok0がこれを迎撃、佐々木論文で未投入の陸軍士官学校卒業騎兵戦死者名簿を投入、騎兵第27連隊の戦死者を割り出し、騎兵第2 7連隊長戦死を否定するとともに、日本兵の軍装から1938年以降の写真と証明したため、dymaxionの攻勢は頓挫し複郭陣地へ退却した。

情報封鎖とdymaxion橋頭堡包囲

 これにより、dymaxionの包囲網がさらに縮小されるが、10月5日にdymaxionが日本側を利用して史料を収集していることが発覚、日本側は一斉に史料提示を拒否するとともに韓国側に対して主張の根拠となる一次史料の提示を要求した。この情報封鎖作戦により、史料という弾薬を自給できない韓国側の抵抗は急速に弱体化し、戦線を離脱する脱走兵が続出、敵将dymaxionは孤立無援となった。

一次史料砲による包囲攻撃

 10月6日までにdymaxionを包囲した日本側は、アジア歴史資料センターを兵站基地として最大限活用し、韓国側の論理構成の矛盾への攻撃及び間島出兵後の武器定数調査等一次史料による韓国側が主張する戦果の否定等を行い、dymaxion包囲環を縮小。このころ、韓国側ROMから日本側包囲網に対し停戦要求が提示されるも、戦勢を支配する日本側はこれを拒否、日本側は作戦行動を継続した。

 このころ、韓国側の圧倒的不利に危機感を感じたNAVER運営者は、日本人の青山里関連スレに対する削除攻撃を敢行したが、衆寡敵せず、日本側による包囲環はじわじわと狭められた。進退窮まったdymaxionは、日本側に独立軍側一次史料の提示を約するが、独立新聞の複写物しか投入する能力が無く、これはシン・ヨンハ論文で既に提示され、日本側によって論破済みの画像であったため、その場で日本側に一蹴された。

dymaxion論陣の崩壊

 10月7日、dymaxionは青山里で捕獲したとされる「白木鞘の軍刀」なるもの を提示して日本側では比較的圧力の弱い突出部に位置するpeachboyに事大し、同正面からの脱出を図るも日本側により阻止された(バルジの戦い)。包囲環を突破できないと観念したdymaxionは、日本軍に大損害を与えたという青山里大捷の主張を全て放棄し、ゲリラを殲滅できずにシベリアに取り逃がしたのでゲリラの勝利であるという論法に後退、事実上青山里における韓国側の大勝利という主張はここに破綻した。

 しかし、dymaxionは完全敗北を隠蔽するために、朝鮮独立運動の血史の正当性 を保つことに固執し、また、日本側が立証できないと見込んで「間島領事館報告」にある加納大佐は戦死したか、戦死ではなくとも戦線を離脱しなくてはならない重傷を負ったはずだという根拠のない主張を繰り返した。これに対し、10月22日、韓国側が加納大佐戦死の日とする当日を期して、jpn1_rok0が加納大佐の連隊長交代時期に関する史料を投下、同大佐が間島出兵の2年後まで無事勤務したことを立証、dymaxionの最後の抵抗を粉砕し、1ヶ月にわたる包囲戦が終了した。

dymaxion線の後退

 敗残のdymaxionはNAVERの戦場から逃亡、guerrillaと改名して別サイトで勝利宣言を行い、日本側から「dymaxionの独立新聞」と嘲笑される結果となった。この戦いで日本側は統制された組織的な行動をとったと、韓国側は分析したが、それは誤りである。実態は文永の役当時の鎌倉武士団のような個別のIDによる一騎駆けが主体であり、実際に行われた組織的行動は、作戦末期にごくわずか行われたメールによる情報交換だけであった。


添付ファイル: filedymaxionline.jpg 226件 [詳細] fileencircle.jpg 171件 [詳細] filebreakthrough.jpg 152件 [詳細] filewithdrawal.jpg 144件 [詳細]

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Last-modified: 2006-02-25 (土) 09:24:52 (4381d)