弾薬庫/いわゆる「純宗遺詔」と併合不成立論



 日韓基本条約の「already null and void」解釈問題を改めて取り上げるまでもなく、現大韓民国には、「日韓併合はそもそも成立していない」という願望が根強く存する。1998年以降『世界』誌上で行われた一連の「論争」も、こうした願望を「歴史学的に」補強しようとする試みの一つあらわれであると言えよう*1

 さて、李泰鎮は海野福寿の指摘に応える中で、自らの主張を補強するために、「純宗皇帝の証言」として「遺詔」なるのもを提示した*2。李氏は「遺詔の全文は以下の通りである」として、次の文章を掲載している。

一命僅かの朕は/併合の認准を破棄すべき事を詔す/去る日の併合認准は強隣(日本をさす:筆者)と逆臣(李完用などをさす:筆者)の輩が之を為し之を宣布した/朕の為した所にあらざるなり
惟 我を幽閉し我を脅制して/明白に言ふを得さらしめざるに由るものにして/決して朕の為したる所に非ず
(中略)

趙鼎九 詔付

 李氏は、「純宗遺詔」の引用元である『新韓民報』の原文を正確に引用できていない。たとえば、「予」字を丹念に「朕」字に改竄したりしている。こうした有害無益な努力をする代わりに、研究者としての資質の陶冶に時間を費やすべきではないだろうか。また、いわゆる「武力による強制」を否定する内容の文章を掲示するのは、これまでの李氏の主張と整合しないものであり、何を考えてのことなのか、理解に苦しむところである。

 気を取り直して、李氏の資料説明を読んでみよう。李氏は、次の様に記している。

純宗皇帝は一九二六年四月二六日に崩御する直前に、自身の傍らを見守っていた宮内大臣趙鼎九に、口述で次の様な遺詔を残し、その遺詔は二ヶ月余り後で、米国サンフランシスコの韓国僑民が発行している『新韓民報』一九二六年七月八日付紙面に報道された。

 趙鼎九は、併合後に男爵となるが、後に返爵した人物として知られている。死に行かんとする純宗を見守り、口述の遺詔を筆記する忠臣という、ある意味では絵になる構図である。一部の人には感動的に見えるのであろう。
 ちなみに、趙鼎九は1926年3月30日に死亡している。

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( ´H`)y-~~ わりとこんな感じ。


 ところで、「詔」とは天子の命令である*3。ちなみに、皇太子の命令を、「令旨」と言う。純宗が「遺詔」を残したとすると、併合破棄を主張し得る「日本の強制」の無い状況下ですら、純宗は「皇帝」として振る舞ったということになる。これは、「高宗の退位が強制であり、故に純宗は正統な統治者では無く、純宗に統治権は無い」といった類の主張を否定することにつながる*4、ある意味では挑戦的な行為であり、「傀儡」ではなく「簒奪者」であるなどという正閏論争に発展しないのが、不思議でならない。

 それはともかくとして、李氏はこれまで、詔・勅*5の形式を根拠に併合不成立を主張してきた。しかし、「遺詔」については、口述を「詔」と見なしている。こうした二重規範を安易に用いるのは如何な物かと思うが、ともあれ、所謂「純宗遺詔」を「詔」であると見なしたことにより、李氏が自らの論証手法を放棄してしまったのは、極めて興味深く、ここに韓式史学の精華があるように思われる。

 更に加えるならば、李氏はこれまで、「“新帝”に押し上げられても、軍国政治の処決で皇太子の手決印を変えないでそのまま使用していた」とし、「純宗の皇帝位は、したがって十一月十八日付で正式に有効になった。」と主張し、高宗退位と純宗の即位を直結させない立場をとり、「父皇の意に従って皇太子として軍国政治を代理する地位を守った」との見解を示してきた*6。しかし「純宗遺詔」について、皇帝の言であるが故に「詔」であるという立場を李氏が取るとすれば、矛盾が生じてしまう。何故なら純宗は李氏が「父皇の意に従って皇太子として軍国政治を代理する地位を守った」と見なす期間においても「勅」を発しているのであり、純宗は皇帝として振る舞っていることになってしまうからである。


 以上見たとおり、日韓併合史論争において、「純宗遺詔」検討が果たす意義は、今なお少なく無いと言えよう。近現代「史家」たちの更なるつぶし合い研鑽を望んで已まない。


*1 李泰鎮「韓国併合は成立していない――日本の大韓帝国国権侵奪と条約強制(上)、同(下)」『世界』650、651(1998.7〜8)・坂元茂樹「旧条約問題の落とし穴に陥ってはならない――本誌・李泰鎮論文へのひとつの回答」『世界』652(1998.9)・李泰鎮「韓国併合不成立再論――坂元教授に答える」『世界』659(1999.3)・笹川紀勝「日韓における法的な「対話」をめざして――第二次日韓協約強制問題への視点」『世界』663(1999.7)・海野福寿「李教授「韓国併合不成立論」を再検討する」『世界』666(1999.10)・李泰鎭「略式条約で国権を移譲できるのか――海野教授の批判に応える(上)、同(下)」『世界』674、676(2000.5〜6) ・荒井信一「歴史における合法論不法論を考える」『世界』681(2000.11)
*2 前掲「略式条約で国権を移譲できるのか(下)」pp.279-280。なお、「この史料の収得にあたり、国際韓国研究院崔書勉院長の助力が大きかった」とのことである。こうした人的紐帯もまた、将来的には検証する対象とすべきであろう。こうした意味では、次の記事も興味深い。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2004012696498

*3 『史記』巻6秦始皇本紀「令為詔、天子自称曰朕」、『広韻』巻4「詔、上命」
*4 純宗の統治権に関する種々の見解については、海野福寿『韓国併合史の研究』(岩波書店、2000.11)pp.3-5・396-400に上海臨時政府・IFOLの見解が紹介されているので、参照されたし。
*5 『後漢書』注引『漢制度』「帝之下書有四。一曰策書、二曰制書、三曰詔書、四曰誡敕。(中略)誡敕者、謂敕刺史・太守、其文曰有詔敕某官。它皆倣此。」、『事物紀源』巻4、勅「漢書定儀則四品、其四曰戒勅、今勅是也。自此帝王命令始称勅」
*6 李泰鎮(著)/金玲希(訳)「統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造」(海野福寿(編)『日韓協約と韓国併合』(明石書店、1995.6)pp.245-253 )

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Last-modified: 2006-10-29 (日) 19:11:49 (6381d)