盗掘品を買わされた昌徳宮博物館

平成17年8月5日

(p.30)
盗掘を助長した日本の学術調査

 その後、伊藤博文は初代統監辞任の数ヵ月後に、ハルピンの駅頭で、日帝の侵略と戦った安重根義士に射殺される。しかし、日本人による略奪行為は、その後もやまなかった。
 二代目統監の曽禰荒助は、韓国人の胸中を多少はばかったようだが、それでも盗掘にたいする厳重な禁止令を布告しなかった。韓国人にとって屈辱の「韓日合併」後も、朝鮮総督府は、日本人の盗掘をしばらく放任していた。このことに関し、三宅長策は、さきの回顧談でつぎのように述べている。
「発掘が盛んになると共に、一般朝鮮人の反感もこれと共に高まっていった。しかし、取締上これを禁止する方針をとったころには、すでに何千人という人が、これによって生活し、にわかにこれを禁止することは、これらの人の死活問題となっていたから、総督府でも政策上徐々に禁止する方針を取り、まず当局は、黙認するといった状態であった」

[原文は以下の通り]
當時朝鮮人は李朝末期の苛政に苦しめられ疲弊の極に達してゐた。其の上に日韓合併以前から文武兩斑其職を失ふもの次第に甓辰掘朝鮮全土は窮民で滿ち溢れてゐるといふ状態であつたから、兎に角掘ればいくらかの金になるといふので古墳發掘は朝鮮人に一の職業を與えた有樣であつた。
(中略)
 發掘が盛んになると共に一般朝鮮人の反感もこれと共に高まつていつた。然し取締上これを禁止する方針をとつた頃には旣に何千人といふ人がこれによつて生活し、俄にこれを禁止することは此等の人の死活問題となつてゐたから、總督府でも政策上徐々に禁止する方針を取りまづ當は默認するといつた状態であつた。
(中略)こゝで一言説明して置きたい事は高麗時代には佛海麿鬚弔徳鮗阿鮃圓區畔資力に應じて冥器を新調し、平生使用してゐた調度類も其まゝ副葬品として埋藏する風習であつたから葬式が續くと大家でも傾くといふ有樣で高麗朝の疲弊は之に原因すると論する人もあつた。李朝に至つては其弊害を認めて儒海没呂卅鮗阿鮗更圓激垢和斤らんよりは寧ろ儉せよとの趣旨に則り質素に行ふことに改められたから、李朝の古墳から出るものは無いそのことを朝鮮人は能く承知してゐたやうである。(三宅長策「そのころの思ひ出――高麗古墳発掘時代」『陶磁』第六巻六号、1934.12)

※李引用「当局」は「当分」の誤。三宅は先に「古墳發掘は朝鮮人に一の職業を與えた」と記しており、「一般朝鮮人」とは、盗掘を職業とする「一般」ではない「朝鮮人」と対を為すのであって、日本人に対して朝鮮人「一般」という文意では無い。「李朝の古墳から出るものは無いそのことを朝鮮人は能く承知してゐたやうである」と後に続くのも、留意すべき点であろう。

(p.31)
 つまり、日本人盗掘者は、韓国での経済的基盤が固まるまで、統監府とそれにつづく総督府の手厚い保護を受けたのである。しかし、盗掘者は、民族的義憤にかられた住民からたびたび手痛い目に遭っている。たとえば、一九一六年に江華島の高麗古墳を踏査した今西龍は、つぎのように記録している。
 「この陵は大正五年より八年前、約二〇人の日本人来りて盗掘し、多数の遺物を獲得したが帰途、その当時横行せし暴徒(住民をこのように表現した)に襲われ、銃を捨て、一行ことごとく殺致されたという」(「高麗諸陵墓調査報告書」『朝鮮古蹟調査報告書』朝鮮総督府編、一九一六年)

[引用原文は、以下の通り]
※第三十章 順敬太后嘉陵
所在地 江華郡良道面陵内里
(中略)
 本陵ノ後方約四十間本陵ヨリモ廿四尺高キ地點ニ尚ホ一陵アリ(第六〇圖ヲ見ヨ)封土ヲ流出シ壙室前方ノ上端露出シ盜賊ノ爲メニ一小部ヲ破壞セラレシ爲メ其内部ヲ窺フコトヲ得ヘシト雖今巨石ヲ用ヰテ盜ノ侵入口ノ一部ヲ塞キシヲ以テ之ヲ除去セサレハ出入スルコト難シ(中略)
 此陵ハ大正五年ヨリ八年前約二十人ノ日本人來リテ盜掘シ多數ノ遺物ヲ獲得セシカ歸途其當時垤團札桂重魅暴吋魯貊謄鮗離ヽ狼狽シ一行盡ク殺戮セラレタリトイフ、其後日本ノ石工壙内ヲ搜リテ鐙壹個ヲ獲タリトイフ、此陵ハ何人ノ陵ナルカ傳ナシ、鐙ヲ獲タルコトニシテ事實ナランニハ男性ノ陵ナル可シ、前方ノ陵ニシテ實ニ嘉陵ナリトスレハ其上方ニ在リテ王陵ノ構造ヲ有セルモノ果シテ何人ノ陵ナルカ、其嘉陵ト稱スルモノ果シテ眞ノ嘉陵ナリヤ、尚ホ研究ヲ要スルモノアリ(今西龍「高麗諸陵墓調査報告」『大正五年度 古蹟調査報告』朝鮮総督府(京城)、 1917)

※李は「暴徒」を「住民をこのように表現した」としているが、根拠未詳。すくなくとも文脈上、「民族的義憤にかられた住民」と読み取り得ない。また、「歸途其當時垤團札桂重魅暴吋魯譟廚燭里任△蝓同地住民か否かも判然としない。また同地の陵について「盜賊ノ爲メニ一小部ヲ破壞セラレ」と記しているが、この行為が日本人によるとの記載は為されていない。当該今西報告を俯瞰するに、日本人を盗掘の主体として記す事例のきわめて少ない点には、留意が必要であろう。
 李の出典表記『朝鮮古蹟調査報告書』は、『古蹟調査報告』の復刻(国書刊行会)版の書名『朝鮮古蹟調査報告』の誤記であろう。また、李は出版年を「一九一六年」とするが、当該報告書は、調査が大正5年(1916)年、出版が1917年である。
 なお、本段は個別の陵に関する報告であるが、今西は「第二章 躄ξ裕事」に於いて、朝鮮の躄ξ佑粒詰廚魄焚爾稜,記している。

第二章 躄ξ裕事
(中略)
高麗時代屢々異民族ノ侵寇アリテ或ハ城ヲ陷レ或ハ近郊ニ迫リシコトアリ、斯ル時ニ當リテ珍寶ヲ副葬シ若クハ副葬セリト傳ヘラルル王陵及準王陵カ發掘侵掠ノ慘禍ヲ蒙ルヘキ憂ハ免レサルモノナルヘシ(中略)而シ高麗陵墓ハ異民族ノ掠掘セラルル憂アリシノミナラス高麗國人ノ爲メニ發掘侵掠セラレタルコトアリ、熙宗王四年八月盜賊アリテ武陵(顯宗王ノ考安宗郁ノ陵)ヲ發掘セシカハ王ハ禮部輓予陬北織轡廿輓優鮟篆灰札轡瓮轡翻溝吋伶し.札轡皀慮渭札▲螢轡魄淵特羯肇北織郡袞訌離鬟轡毒轡鮟ぅ札轡瓮織蟯旣チ輓幼哨魍罷シ陵戸人ヲ遠島ニ配セシカ明年ニ至リ盜數人ヲ獲テ之を誅セリ、高宗王三年盜アリ純陵(仁宗恭睿太后ノ陵)ヲ發セリ(中略)以上陵墓盜掘ノ記事ハ史籍ニ記スルモノノミヲ録セシニスキス、吏民カ其責ヲ恐レテ盜掘セラレタリシコトヲ祕スルモノ或ハ史官ノ採録ニ漏レタル盜掘事件ハ頗ル多數ニ上ルナル可シ
 李朝ニ至リテモ尚ホ玄陵ノ如キハ盜掘セラレントセシコトアリ、李朝朝鮮人カ遺物獲掠ノ目的ヲ以テ先朝陵墓ヲ盜掘セシコトハ或ハ少カリシナラント推測サルヽモ其用石ヲ盜去セシコトハ甚シキモノアリシナラン、開城南郊ノ丘陵ハ土山多クシテ石材缺乏スルニ當リ李朝ニ至リテ附近中流家ノ墳墓ハ此方面ニ於テ盛ニ造營セラルヽヲ以テ南郊ニ在ル麗王陵ハ其用石ヲ盜去セラレ其石材ノ遺存スルモノ殆ト少ナキハ此一例ナリ、又高麗王族貴人ノ墓地ハ所謂地理ニ適應スル吉地ニ在リテ李朝ノ人々モ亦自家ノ墳墓ヲ造營セント欲スルノ地ナルヲ以テ李朝人カ此種ノ地ヲ占得シ古陵古爛鮑鑛織径蕎絅房家ノ新墓ヲ造營スルハ屢々見聞スル事實ナリ之カ爲メニ陵墓ノ失セルモノハ非常ノ多數ニ上ル可シ、其他封土ノ流落石物ノ散失ノ爲ニ所在ノ不明ニ歸セシ陵墓モ多數アルヘシ、李太王ノ世トナリテハ耡∧璽伶し.札轡皀両ナカラスト雖彼等ハ金屬品ヲ盜去シ陶磁器ヲ遺存セシトイフ、日聆ムЦ無魎船縫茱螢胴好剖畴ニ至リテ不良朝鮮人ニヨリテ苟クモ陵墓ノ形ヲナスモノニシテ盜掘セラレサルモノナク甚シキハ一陵墓ニシテ二回三回ニ及フモノ少カス、旣ニ封土石物ヲ失シ外面ヨリシテ墳墓ナリヤ否ヤ不明ノモノト雖巧ニ搜索發掘シ荒涼凄慘ヲ極ムルニ至レリ嗚呼痛マシキカナ

 また、こうも書いている。
 「昔から朝鮮人は、先祖の墓に手をつけるならわしがなかったが、悪質な日本人が、他国の先

(p.32)
祖の墓をこれはど非情に盗掘した」

※当該記述出典未詳。再調査中。

 総督府の古蹟調査と遺跡の破壊
 総督府時代の初期から、古蹟調査と古墳発掘に参画した梅原末治も、盗掘の実情についてつぎのように述べている。
 「(日本人による学術調査は)多くの古物蒐集家による遺跡の破壊を助長するという好ましからぬ面をあわせ持ったものたることは、もとより否むべくもないのである。一体、半島における遺跡の破壊、ことに古墳墓の盗掘は早く日露戦争後、高麗青磁を副葬した開城を中心とする規模の小さなものからはじまり、大正に入って慶尚北道善山付近を主とする洛東江流域の遺跡の濫掘となり、大正一二、三年には楽浪古墳群の大規模な盗掘を見るに至った」(『朝鮮古代の文化』、一九四六年一二月)

[当該原文は以下の通り]
二、古蹟調査事業の経過
(中略)
 以上の二者に比べて更に顯著なのは、第三の支那事變以降朝滿が所謂兵站基地として躬唆箸興されることになつた結果、半島の北半に於いて、彼の十九世紀の歐州で見た樣な考古學關係遺物の發見が續出して、關係知見を擴大した事實とする。勿論是等の出土品たるや、歐州の場合と同じく充分な學術調査が行はれることなく多くの古物蒐集家に依る遺跡の破壞を助長すると云ふ好ましからぬ面を併せ持つたものたる事は固より否むべくもないのである。一體半島に於ける遺跡の破壞、特に古墳墓の盜掘は早く日露戰爭後高麗惻Г鯢葬した開城を中心とする規模の小さなものからはじまり、大正十二・三年には樂浪古墳群の大規模な盜掘を見るに至つた。そして爾後半島古蹟調査事業の縮小に反比例して、右の盜掘の風が各地方に及んで未調査の古墳が次から次へと破壞されて遺物は民里忙粡兇擦蕕譴觧になり、結局に於いて當初計畫組織的だつた調査も、遂には是等の後始末に終始すると云ふ現象を呈し、それは殊に近年に於いて著しく、宇垣總督をして總督政治の一汚點であると歎ぜしめる程になつて來た。たゞ是等の里ら、鐵道滿浦線の工事に聯關して、同地方からの明刀錢の續出した如き、或は平壤府に於ける工業地區の擴張に伴ひ、地下深く位置した古墓が段々と檢出せられて、樂浪以前の大陸文物の半島波及に關する知見を豐富にしたなどは學術上特筆せらるべきであり、なほ北鮮の咸鏡北道に於いて軍事施設の工事に當つて史前遺跡が見出され、その或者の調査の行はれたことなども同じく學術上に寄與した例に加ふべきものとせられよう。
(中略)
たゞ史跡などに就いて理解の殆んど缺如した半島の多くの民衆は、か樣な永存設備を無意味に破壞する傾向が強く、保存上各古墳に建てられた標木は直ちに燃料と化し、施された壁畫古墳の戸口の扉の如きも、壁畫の描かれた漆喰面を剥ぎ取る爲に破壞すると云う風で、いたく局に當るものを困惑せしめたのであり、更に射利の徒が古墳の學術調査に伴ひ、旣に述べたその盜掘を行ふ風を強めて、それが古堂塔にも及ぼすに至り等して、保存事業の前途をいよ〓〓多難ならしめたのであつた。(梅原末治『朝鮮古代の文化』高桐書院1946)

※李は「(日本人による学術調査は)」と主語を補っているが、原文記載は「支那事變以降朝滿が所謂兵站基地として躬唆箸興されることになつた結果、半島の北半に於いて、彼の十九世紀の歐州で見た樣な考古學關係遺物の發見が續出して、關係知見を擴大した事實とする。勿論是等の出土品たるや、歐州の場合と同じく充分な學術調査が行はれることなく」であり、兵站基地・諸産業の勃興にともなう開発に際し遺物が発見されたが、戦時でもあり「充分な學術調査が行はれることなく」、それ故に「多くの古物蒐集家に依る遺跡の破壞を助長すると云ふ好ましからぬ面を併せ持つた」と述べているのである。更に、原文は大正十二・三年以後の状況について「爾後半島古蹟調査事業の縮小に反比例して、右の盜掘の風が各地方に及ん」だことを伝えており、半島古蹟調査事業の縮小にともなって盗掘が盛んになったと述べている。

 韓国の古陶器を人にさきがけて蒐集し、その研究の古参とも言うべき小山富士夫は、一九三七年につぎのような証言を残している。
 「高麗陶磁の蒐集熱は、年とともに高まり、明治四四、五年ごろは最高潮に達した。当時朝鮮には、高麗陶磁を盗掘、販売しては生活していた者が数百人いたといわれ……その後禁令が下り、盗掘が厳禁されてから、いくらか下火になったようだが、明治末期以降、高麗古墳の盗掘の絶えた時はなく、この間に盗掘された高麗の古陶磁は、おびただしい数であろう。……開城付近から

(p.33)
出土したものが圧倒的に多いらしく、その総数は、何十万とも知れないおびただしい数のようである」(「高麗陶磁序説」『小山富士夫著作集(下)』、一九七九年)
「何十万とも知れない」とは、それほど途方もない数量だったことを強調したものと思われるが、いずれにしてもその大多数は日本へもち去られたのである。

※「高麗陶磁序説」の初出は『世界陶磁全集第13巻』(河出書房、1955)。李が「一九三七年につぎのような証言を残している」と述べる根拠を、同書からは探し得ない。再調査中。
[当該原文は以下の通り]
その後高麗陶磁の蒐集熱は年とともに高まり、明治四十四、五年ごろは最高潮に達した。当時朝鮮には高麗陶磁を盗掘、販売して生活していた者が数百人いたといわれ、高麗青磁のうちでも特に優れたものは、主としてこのころ発見されたものだと聞いている。その後禁令が下り、盗掘が厳禁されてから、いくらか下火になったようだが、明治末年以降、高麗古墳の盗掘は絶えた時はなく、この間に、盗掘された高麗の古陶磁はおびただしい数であろう。
(中略)
 しかし何といっても今日普通に見る高麗青磁の大部分は高麗の首府だった開城付近から出土したものが圧倒的に多いらしく、その総数は何十万とも知れないおびただしい数のようである。
 高麗陶磁の名品が最も多く集まっていたのは周知の通り京城の元李王家美術館である。一般に陳列公開されていたものの他、地下室にもいろいろの参考品や優品が何千点も収蔵されていた。元李王家美術館所蔵の優品は『李王家博物館所蔵品写真帳』『朝鮮古蹟図譜八』その他に紹介されているが、未紹介のものにも貴重な資料や見るべきものがいろいろとあった。李王家美術館についでは、朝鮮総督府博物館や開城博物館にも高麗陶磁の優品が相当にあり、また京城、大邱、釜山等にあった個人的な蒐集もおびただしい数で、高麗の陶磁は何といっても戦前朝鮮に一番多く集まっていた。ついではわが国にも明治、大正、昭和にかけておびただしい数が将来され、今日わが国にある高麗陶磁の総数は恐らく何万という数であろう。このうち特に優秀なものをこの篇で紹介したわけだが、何点かは朝鮮にもない、優れたものがわが国に渡っている。

※著者は「その総数は何十万とも知れないおびただしい数」と述べた上で「高麗陶磁の名品が最も多く集まっていたのは周知の通り京城の元李王家美術館」とし、更に「今日わが国にある高麗陶磁の総数は恐らく何万という数であろう」としている。これに従えば、日本に将来された高麗陶磁は全体の十分の一程度に過ぎず、「高麗の陶磁は何といっても戦前朝鮮に一番多く集まっていた」のである。
 なお著者が「青磁」「陶磁」を如何に区別して記しているか未詳であるが、仮に青磁が陶磁の一種として記されているとすれば、「高麗青磁の大部分は高麗の首府だった開城付近から出土したものが圧倒的に多いらしく、その総数は何十万」であり、「今日わが国にある高麗陶磁の総数は恐らく何万」なのであるから、日本に将来された「高麗青磁」の総数は、更に少なく見積もるべきものとなろう。

 数年前に逝去した歴史学の李弘植高麗大学教授は、日本の民間人が所蔵している高麗青磁を約二万点と見積ったが(「在日韓国文化財備忘録」『史学研究十八集』、一九六四年)、実数はそれ以上になるものと推測される。ある日本人研究家の近年の調査でも、三、四万点といわれている。
 現在、韓国内の全博物館の所蔵品と民間所蔵の所有物のすべてを合計した数量が、約二万点ということからみても、日本にはその二倍、もしくはそれ以上の高麗青磁があるといってよい。これは韓国人研究者の一致した見解である。


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Last-modified: 2005-08-05 (金) 22:10:19 (4702d)