盗掘品を買わされた昌徳宮博物館

平成17年8月4日

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盗掘品を買わされた昌徳宮博物館

李王家・昌徳宮博物館の創設と盗掘品
 盗掘品の上得意客であった伊藤博文は、一方では親日派で売国奴の巨頭だった李完用(当時、大韓帝国内閣総理大臣)に命じて、昌徳宮に居宮していた高宗皇帝を慰労するためとの口実で王宮敷地内に動・植物園と博物館をつくらせた。そして博物館の展示物をそろえるため、高麗磁器や古墳遺物など、盗品を博物館に高価で売りつける道を切り開いたのである。
 韓国の主権を地上から消滅させた「乙巳保護条約」をすすんで結んだ売国奴の李完用は、すでに日帝の指示に従順なあやつり人形となって、購入の窓口役を買って出ていた。そして、美術品と遺物の購入の実務を実際に担当したのは、伊藤の直命を受けた統監府の日本人官僚であった。
 その結果、そのころ韓国で暗躍していた骨董商と盗掘者は、元手をかけずにせしめた高麗磁器を、統監府の仲介で韓国王室に高く売りさばくことができたのである。

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 当時の一日本人の証言によれば、そのころの高麗磁器一個あたりの取引相場は五円程度で、少々高くても一○円から二〇円が妥当な値段だったという。しかし、李王家・昌徳宮博物館が購入した「青磁象嵌辰砂彩葡萄童子文瓢形瓶」という高麗青磁は、なんと九五〇円とのことである。破格の高値で取引されたとソウルの市内で話題の種になった。このひとつの例から推して、こんな手段でにわか成金になった日本人がソウルにはたくさんいたことであろう。

[参考資料]
 我々の買ふのは最初は普通五圓、高くて十圓、二十圓位だつたが朝鮮人から買ふ値は随分安かつたものらしい高麗惻Г高くなつたのは李王職や總督府が博物館を建てるためにどしどし買ひ出してからのことである。官廳の豫算の内で買ふのだから、品物がよければ思ひ切つて出した。御陰で好事家は思はざる打撃を受けた次第である。當時一番高かつたのは今李王家博物館に藏されてゐる有名な惻ь慘紅葡萄唐子文瓢形瓶で、たしか千餘圓だつたと記憶する。然し今となつてみれば安いものである。(三宅長策「そのころの思ひ出――高麗古墳発掘時代」『陶磁』第六巻六号、1934.12)

 現在の韓国中央博物館が所蔵している李王家・昌徳宮博物館(解放後、徳寿宮美術館と改名し、一九六九年五月にいまの博物館に吸収された)時代の、六五六二点にのぼる高麗磁器の出土地は、九九%が開城一帯である。言うまでもなく盗掘品である。

 盗掘磁器とは知らなかった高宗皇帝
 伊藤博文は、亡国の渦中にある高宗皇帝の心労を慰労する目的で、博物館の創設をすすめたというが、その博物館にどんな展示物が蒐集されたのか、高宗が知るはずはない。国運が危機にさらされ苦悩の日々を送っていた高宗にとって、博物館を創設するなどという心境にはとてもなれなかったはずである。伊藤統監の文化的侵略計画の意を受けて、李完用が計画実行した陰謀だったのであろう。
 伊藤博文は、高宗皇帝に博物館創設を自分の手柄と誇示している。それを物語るつぎのようなエピソードが残されている。このエピソードは、一九一三年に韓国に来て、古陶器を研究した彫刻家

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の浅川伯教が、李王家・昌徳宮博物館長であった末松熊彦から聞いたという。伊藤博文の案内で高宗皇帝が博物館を見学したときの目撃談である。
 「また、ある日、李太王様(高宗皇帝)が始めて御覧に成って、この青磁は、どこの産かとお尋ねに成った時、伊藤公は、これは朝鮮の高麗時代のものですと御説明申すと殿下は、こういうものは朝鮮に無いと申されました。そこで伊藤公は、お返事を申し上げることが出来ず沈黙しておったのです。御承知のとおり、出土品であるという御説明は、この場合できないのですから」(「朝鮮の美術工芸に就いての回顧」『朝鮮の回顧』和田八千穂・藤原喜蔵編、一九四五年三月)
 このエピソードからうかがえるように、高宗皇帝は高麗青磁についてまったく無知だったのである。李王家の伝来品のなかにもみられない高麗青磁にはじめて接し、「この青磁はどこの国のものか?」と高宗がたずねたとき、伊藤は内心、冷汗をかく思いをしたで

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あろう。

[当該記述及び引用原文は、以下の通り]
一、渡鮮
 私は未だ見ぬ朝鮮に異常な憧憬と興味を抱いて、行春の内地を後に海峡を渡つたのは大正二年であつた。
(中略)
四、李王家博物館の高麗青磁
 渡鮮早々の五月の初め、春未だ去らぬ昌慶苑に遊び同苑博物館の高麗青磁を始めて見る。
(中略)其後聞いて見ると之れ等は最近集められたもので、土中に埋つて居つたものだと云ふ事だ、その散逸を惜しんで市井の商人から納めさせたと云う事である。
 その事について当時の館長故末松熊彦氏は次ぎの如く語られた。
当時朝鮮の有識者の中に一人もかう云ふものに対して理解のある人が無く、矢鱈高いものを持ち込むと誤解されました。
又或日李太王様が始めて御覧に成つて、この青磁は何処の産か、と御尋ねに成つた時、伊藤公は之は朝鮮の高麗時代のものですと御説明申すと、殿下は、かう云ふ物は朝鮮には無いと申されました。そこで伊藤公はお返事を申上げる事が出来ず沈黙して居つたのです。御承知の通り、出土品であると云ふ御説明はこの場合出来ないですから。
又伊藤公は帰りに、これだけ立派なものをよく集めたが、今迄に價は皆で何程拂うたかと聞かれるので、会計の者が、十万円少し越しました、と云ふと、そんな金でこれ丈集まつたのかと云ふて賞められました。それから後は購入にも都合よく楽に成りました。
 こんな話を末松氏から聞いたことがあるが、この一挿話で其時の樣子や末松氏の苦心が思ひやられると思ふ。(淺川伯教「朝鮮の美術工芸に就いての回顧」『朝鮮の回顧』近沢書店(京城)、1945)

※語を補えば、「朝鮮(地域)の高麗(王朝)時代のものですと御説明申すと、殿下は、かう云ふ物は朝鮮(王朝)には無いと申されました。」との文脈であろう。出土品であるという説明は、高麗時代には存在した青磁を朝鮮「王朝」は伝世させ得なかったこと、並びに高麗青磁作成の技術を喪失したことをあからさまに指摘することになるので、李太王を傷つけぬ為に沈黙していたとの意ではなかろうか。

 もし、高宗皇帝が、はじめて目にした神秘的な美しさをもつ高麗青磁が、高麗王朝の王陵や貴族の墓から掘り出してきた品と知ったならば、どのような想いに駆られたことか。きっと一年後に国が消滅したときのような衝撃的な悲哀と恨みにとらわれたにちがいない。


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Last-modified: 2005-08-05 (金) 01:01:39 (4703d)