朴蒼岩「日本国民に告ぐ! 歴史の掠奪者は誰か?」(『歴史と現代』Vol.1-1( 1980年8月)、pp.8-23)

  (一)
 一九六二年正月、それは厳しく寒い元旦であった。たまたま私は五・一六軍事革命の理想を盛代の大陸史観に問うため、史学者であり曾って抗日独立運動の志士であった一人の老師に、歳拝(元旦お祝い)に伺ったおり驚くべき秘密文書を識ることになった。
 そもそも韓民族の歴史を抹殺することが、日本の国策であったらしい……ということは久しく主張されていた。例えば高句麗の英主広開土王は、倭王(天皇のことである)を伐った功績のために、遙か後世の明治時代に、日本の憲兵・酒匂大尉によって碑文を破壊されて了った。
 この破壊の理由は、日本の天皇家が百済人であったからで、そのことは既に、心ある韓国史家の間では通説になっていたのだが、日本の偽史活動の内容とか目的は必ずしも明瞭ではなかった。
 文定昌氏は一九七〇年、その著『日本上古史』に於て、大和の国号は新羅真徳女王の年号の太和であることを指摘し、さらに『旧唐書列伝三四劉仁軌伝』に「唐の熊津都督劉、仁願が、扶余豊、北にあり、扶余勇、南(築紫)にあり、百済の復国を策す……よろしく宥恕を以て包容すべしと献策した」とある記録を根拠にし、紀元六六一年、白村江の決戦で敗北した扶余勇が、天智になったことを主張した。
『三国史記』文武十一年紀によれば、白村江に於ける日本側の船団は、千隻であったが、『旧唐書百済』によると、白村江では「(唐は)其(倭)の舟四百を焚き、賊衆大潰す。扶余豊脱身して走る」となっている。従って扶余豊とともに、白村江から九州に脱出した百済軍は、六百隻の兵力であった筈である。
 日本でも一九七六年、佐々克明氏は『天皇家はどこから来たか』に於て。天武は新羅の金多遂であると主張した。
 一九七八年、鹿島氏は『倭と王朝』に於て『東日流外三郡誌』が、神武王統と孝元・開化王統を別王朝であるとすることから、皇統譜が百済と駕洛の両王朝を合成したものであると指摘し、天智は百済の末王・扶余豊であると主張した。
 実は、私と鹿島氏との間に於て、天智王朝が百済の亡命王家であることについては、議論に値しない程自明の理であるというコンセンサスがあったのだが、日本側の史学者は必ずしもこれを認めていないように見受けられる。例えば岡田英弘氏は、前記『倭と王朝』に讃辞を与えているが、一九七九年『アジア文明の原像』に於て、「三四〇年代に高句麗が西方の敵と戦っている間に、漢江流域の帯方郡の地で高句麗の将軍が独立したらしい。つまりこれが百済なので……その百済が実は倭国をつくった」と述べたが、これに対して飯島茂氏は「割り切りすぎ」といった批判をしているのである。
 この岡田英弘氏の百済建国説なかんずく漢江流域帯方説には賛成できない。帯方は韓半島内にはなかったからである。
 私事であるが、私は一九六八年から思想月刊誌『自由』を発行し、今日まで十二年間、民族史学のキャンペーンを続けてきた。もともと私は一介の軍人で、畑違いの私が、何故こうなったかということは後に説明するが、まずその自由誌既載の文定昌氏の論文を引用したい。
(中略)
 ここに述べられたように、後高句麗(渤海)は、高句麗王家が本家で、天皇家が支(分)家であると主張し、日本側(聖武)は、当事者としては極めて深刻なこの主張に意義をはさまず、従って国際慣例上この主張を真実と認めていたことになるのである。
 鹿島氏は、「天皇家が百済王家であることは『日本書紀』に中大兄(天智)が蘇我馬子を暗殺したことを、『韓人が馬子を殺した』と記すことからも明らかだし、のちに光仁が、死亡した時に、桓武が『アイゴー』と云って泣いたことからも、反論の余地はあるまい。反論の根拠は単に後世に歪められた感情の民族的な差別観のみである。」と語る。
 確かに、日本人はアイゴーと云っては泣かないし、アイゴーと云って泣くのは、世界広しといえども我々韓民族だけだから、桓武が、韓民族の言葉で泣いたという事実は、リアルな説得力があるのである。まして、彼の王妃は韓人であることが明記されているのである。
 ところが徳川家の鎖国政策は、日本人が日本列島の自生民族であるから鎖国するのだ、という虚構の論理を発明し、やがては鎖国的史論を作り出し、それが明治維新以降、増幅されて了った為に悲劇がおきた。
 先に述べた酒匂事件の時も、明治天皇は、特に「酒匂に金をやると(酒を)飲んでしまうから」と云って、記念品を与えたという事実があり、天皇家がこの事件を重視していたことが判るのである。
 本論に戻るが、明治政府の基本的国策は、偽史の確立であり、真相の抹殺であった。従ってこの為に偽史機関(シンジケート)を作りあげたことは、論理的な必然としては、万人の認めるところであったが、今ひとつ、明確な証拠がないままに、私達を歯がゆい思いにさせていたのである。
 ところが、この元旦(一九六二年)老師敬いの歳拝の際、私が手にすることになった総督府文書は、日本の国策によって構成された偽史シンジケートの存在と、その活動内容を明確に記録する点で、実に貴重な資料であり、それ自体が重要な史的文書であるといってよいものであった。これを見ると、朝鮮総督の斉藤、宇垣らの下に、日本側委員・今西龍らの御用学者達が存在し、総督らも自ら委員会に列席していたのであるが、昭和参年七月十八日、中枢院に於ける委員会には、天皇家の代理人として山階宮藤麿が列席していたという重大な事実が判った。
 さらに、昭和七年七月二十一日の第六回委員会では、黒板勝美が「……鮮内各地名族、旧家の秘蔵史料を借り入れ(掠奪のこと)、その複製を作成(改竄)したものが、千三百五十余冊、写真が二千七百余点である」と述べている。実は、この数字はインチキで、別のところでは、次のように記されている。
 「大正十二年十月八日第一回委員会に於て定めた朝鮮史編纂の大綱によって、人員と予算の許す範囲内に於て出張調査し……大正十五年十二月には更にこれを一層強化し、全鮮各道は到らざるなく、更に内地・満州に至るまで極力採取に努め、……延日数は昭和十三年三月までに二、八〇〇日、蒐集史料は実に四、九五〇冊、写真は四、五一一枚、文記、画像、扁額など四、五一三点に達した。」
 文書は得々として掠奪の成果(Pol注: 成果」の二文字には圏点が付されている)を誇らしげに述べるのである。勿論このような資料は、調査のためでなく、掠奪の為に集められたのだから、或いは改竄され、或いは宮内府に運ばれ、或いは焼かれ、こののち、韓民族は殆どの史書を失うことになったのである。
 しかし、このようにして史上最大の焚書が、学術調査の体裁で行われたという事実は、かえって、その目的が天皇家の出自隠し、即ち、一大民族移動であった百済亡命政権が天皇家をつくったという歴史的事実の秘匿、又は焚書の逆輸入にあったことを明らかに示して了った。
 そして委員会は「……大正十二年七月、黒板顧問が対馬に史料採訪を行った時、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数対州旧藩主宗伯爵家にあることを知り……古文書類六六四六九枚、古記録類三、五七六冊、古地図三四枚、古画類一八巻及び五三枚を購入した」のである。
 説明するまでもなく徳川時代釜山の草梁に倭館という対馬の宗氏の出張所があって宗氏には日韓両国史の重大な資料が山積みしていたのである。
 偽史シンジケートは、韓国に於ける文書の掠奪によって、いつ、どのようにして、百済と駕洛の諸王が天皇になったが明瞭に記されていることに驚愕し、同種の文書を宗氏からも取り上げてしまわなければ危険だという判断に達した――と見るべきであろう。

 このようにして、委員達の陰謀は、協力した韓国人の努力によって、ついに成功したかに見えた……しかし、実はこの焚書は、古代中国に於て成功した焚書のようにはいかなかったのである。韓民族は中国人とは違うのである。
 韓国には日本の神道の源流にあたる仙教(弘益思想)という固有の民族信仰があって、天符経・神市開天経・三一神誥・参佺戒経等を聖典とし古来その信仰を守ってきたのだが海鶴、李沂、雲樵、桂延寿を中心とする仙教の流れを吸む太白教の老師たちが激しく弾圧と掠奪に抗して、命がけで『桓檀古記』などの一連の史書を現代に伝えたのである。いまこれらの史書をひもとくと、確かに、偽史シンジケートが、韓国の史書を追及して掠奪した理由は、手に取るように判る――ここには、日本史に於ける各王朝が、すべて半島からの移住者であることが記されているからである。
 例えば、東扶余王解夫婁の一族が海を渡り、熊本で多羅国を建てて倭王となったこと、イワレヒコの神武が伊都国の祖王であること、東扶余の末王依羅らが南下して崇神になったことなどの記載があり、これらの事実を綜合すると、天皇家は天智の時に初めて百済系になったのでなく、そもそものスタートから、高句麗の分派である百済人が倭王であったため、百済史を天皇家の歴史として作り変えていたことが判る。
 従って、歴史を改竄した日本国家の歩みは、その後本来の姿を失ったのである。
 ここまで判れば偽史シンジケートの目的は云う必要もあるまいが、もうひとつ例をあげて説明しておこう。
 先に引用した第六回委員会で、文堂崔南善委員は『三国史記』のなかに「昔、桓国あり」とある原文が、京都大学の影印本に於て「桓国」の国の字をその上から加筆して、因に改竄した状態を指摘しているのだが、この改竄の目的が檀君国家の歴史抹消にあったことも、また明白なのである。
 『桓檀古記・檀君世紀』によれば、この王朝は檀君王倹を始祖とし、解慕漱の扶余建国まで約二千年に及ぶ。
 ところがこの事実を認めると、実際には五十一代であったというウガヤ王朝を『日本書紀』が一代に改造したことの虚構も発覚してしまうことになるからである。
 また、京都大学の原本が改竄されたことは、その犯人が事実を識り、それを隠す必要をも識っていたことを示すものである。従って、まさに、偽史シンジケートはこの改竄によってその姿を現わしたと云えるのである。
 さて文書の詳しい内容については、読者の理解を待つことにして、ここで、私がこの文書に触れることになった、冒頭の一九六二年正月元旦に戻らなければならない。

  (二)
 私に諭しかけた学者は、張道斌という八十の老軀ながら、眼は圭々と光っていた。この老史学者は、元旦拝みの私の手を固く握って、次のように語った。
 「君は軍人だと云ったね。また、国史の復元運動を至上使命と誓い、民族革命国士を以て自任すると云ったね。君に会えたのは天命であろう。今この邂逅こそ国祖の御霊の啓示であろう。私は、あなたにこの仕事を託したい。」
 老学者は、力を込めて更に云った。
 「あなたなら本当にできるだろう。私のような文筆の士は、武辺の事は心得ていないのだが、国士を以て自任する君に、ぜひとも呼んで欲しい本がある。」
 と云って大切に取り出されたのが『朝鮮史編修会事業概要(朝鮮総督府朝鮮史編修会発行)』と題するこの一巻の小冊子なのであった。
 「私はもうすでに八十の老人で、何時この世を去るかも測り知れないから、この本を君に伝えたい。この本は二百冊の限定版で、しかも日本人要人にだけ配布したものだから、我々韓国人にはなかなか手に入らなかった。韓国人と云っても、朝鮮総督府に媚を売った者のうち、特に信用の篤かった、朝鮮総督府修史官補の李丙博士や、修史官の甲奭鎬博士の両君などは、この本を貰ったはずだが、今となってはどんな気持ちで持っているやら……この二人以外の者はまず持っていないだろう。」
 こう云いながら、老学者は唇をふるわして感情を示した。
 「君ね! この本を識らないで、朝鮮総督府朝鮮史編修会発刊の、朝鮮史三十五巻を読破しても、まよわされるばかりだよ。
 何故なら、図書館にある朝鮮史三十五巻の豪華な表装に驚いて、その内容を見る目がゆがんでしまい、ついには日帝侵略者の手先になった御用学者達が本物の学者に見えるからなのだ。
 これこそ、偽史政策の恐ろしさと云える。科学的な史観を以て見れば、この朝鮮史三十五巻は三つの偽史目的によって作られたものだ。
 第一の目的はこうだ。
 新羅統一以後だけを歴史時代とし、それ以前の六千年の歴史の大部分を、神話時代として歴史から除外したことだ。そもそも草木の根が地下に張るように、人間の命の根は、父母、祖父、祖先を通じ、天上の神意と造物主の存在に帰する。従って、統一新羅以前の民族史を切り棄てることによって、民族の生命の自覚・理想・使命・誇りの根源を断ち切る結果になる。
 云うまでもなく、民族の過去・現在・未来は、全く民族伝承の実像であり、軌跡でなければならない。云いかえれば、民族史とは民族生存の相続文書であり、権利証書であり、且つ『旧約聖書』がイスラエル民族の史書であるように、我々の民族史は我々民族の『聖書』でなければならない。しかし現況では、民族史の最もな根源が日帝侵略の御用学者達と、その手先になった一進会的な学奴たちの手によって切り棄てられているのだ。
 彼らが上・中古史全部を切り棄てたのは、我々民族の息の根を断つという目的によるもので、まさしく韓民族を首なしの人間、ルーツなしの民族に造り換えるしわざなのだ。しかし、彼らは自覚しなかったけれど、その所業は同時に、日本民族をもルーツなしの民族に変え、血の通った兄弟たちとの縁を斬る結果になってしまった。
 第二の目的はこうだ。
 韓民族の歴史を韓半島に局限することによって、歴史を半島史観で一貫させたことだ。そもそも韓民族の歴史の本源は半島でなくて、大陸なのであるから、彼らが半島史観を作ったのは、韓民族のスケールを縮めようとする陰謀であるし、結果としてそれは近視眼的史観をもたらした。
 民族の大史学者であり、志士であった丹斉申采浩先生(日帝の旅順監獄で死す)は、かつて『百年以前を視るに昨夜の事の如くにして、萬歳以後を視るに明朝の事の如し』と喝破された。
 半島史観に馴致されてしまっては、萬歳以後のことを、明朝の事と視るどころか、十年の計、百年の計すら過大であると諦めざるを得ない。実は、朝鮮総督府朝鮮史編修会と名称が定まる以前には、朝鮮半島(pol注: 「半島」の二文字には圏点が付されている)史編修会という名前だった。この修史が史学研究を目的とするのでなく、独立運動と愛国精神の根源を断ち切り、葬り去ろうとする朝鮮総督府警
務局の思想取締まりという目的をもっていた。だから、朝鮮旧慣調査業務こそ朝鮮史編修会の旧名称であった。我々の民族史は、半島史観という毒素を捨てて、速かに韓民族が中国大陸を支配していた大陸史観を認めなければならない。
 第三に、総督府は、修史によって、我々韓民族を全く意気地なしの奴隷資源に仕込むことを目的としたのである。外敵からの侵略に喘ぎ、もだえ、悲しみ、嘆き、恐れ、縮み、廃れ、疲れ、果ては我々に自主独立の能力が、先天的にも歴史的にもなかったように見せかける為、修史作業のなかで、巧妙な工夫をこらしたのである。
 このようにして、我々が敗者の心理に陥ってしまうように、朝鮮総督府と朝鮮史編修会は巧妙な謀略と技巧によって、偽りの歴史を本物らしくこしらえ上げた。
 しかしこのような偽史によって作られた敗北意識こそ、一九五〇年十一月、中国軍が韓国戦線に投入された時、韓国軍を退却させた最大の原因ではなかっただろうか。
 『中共軍が参戦した――あっ大国の奴等だ!大国兵め。( pol注: 「大国」「大国兵」には圏点が付されている)』このような意識は自らを小国兵と規定することになるのだが、そもそも虎と猫は、勝負にならないという感覚に陥って、我々の軍隊はじりじりと退却したのだ。
 しかしながら、歴史的には、韓民族が元来支那兵を大国兵と恐れるような民族であっただろうか。否、全くその反対で『満洲源流考』には『三人の渤海は一虎に当る』という格言があり、三人の高句麗人は、大虎を退治するとさえ云われていた。支那人ならば、一匹の虎が現れれば、百人でも、千人でも逃げてしまうのではないだろうか。それなのに、韓国戦線に於て中共軍出現の噂だけで、すでに気を呑まされたのは、風声鶴唳の諺の通りで、これこそまさしく日帝総督府の偽史の結果なのである。もし我々が広開土好太王の偉業を小中学校で教えられていたら、一人一人の胸底には、護国猛勇の筋金が通っていた筈である。韓民族が真実の歴史を持っていたら、その時全軍の二〇%が原始武装を有していたにすぎない中共軍などは、まさに乙支文徳将軍の前で敗走した隋軍や、淵盖蘇文将軍に敗走した唐太宗李世民と同じ姿になったに違いないのだ。」
 老師のこの言葉によって、私が、激しく感動していたのは、実はそれが、そのまま私の原体験であって、私自身、あの時、幾たびも雲霞のような中共軍の重囲に落ちながら精鋭ゲリラ部隊を率いて各地に転戦し中共軍を背後からなやましたが不幸にも一時囚えられて、脱出したことがあったからである。
 ろくに戦わずして戦線がくずれるほど、自ら小国兵をもって、大国兵をおそれる姿を眼のあたりに見た私の体験こそ、私をして後に三十年の長きに渡って、ひたすら、史学のキャンペーンに専念せしめた唯一の理由だったからである。
 老師はさらに説き去り、説ききたった。
 「今なお図書館に麗々しく並べられた朝鮮史三十五巻の書中には、以上の三つの偽史政策が毒々しく釘打ちされたまま、日帝総督府の偽史のシンジケートの犯行の証拠として残っている。だから、大韓民族史の復元、半島史の清算民族性の再建は、全てに優先すべき課題だ。若いあなたがたに我々が望むのは、この一巻を調査して『彼を知って、己を知る』の原則に立ち、歴史復元の大義を果たすことだ。私はこれをあなたに期待したい。
 さてこの人物写真を見てごらん。右頁の委員達は兼職の総督府政総務監連中、左頁の顧問達の筆頭は、売国奴・萬古の逆賊・李完用がおさまっているだろう。議長は政務総監だから、李の総督府中枢院副議長は、まさに売国学者のトップに当る。そこでこの本の朝鮮史編修会事務分担表一〇七、八頁を気を付けて見てごらん。朝鮮史の編・巻第一編部(新羅統一以前)第二編部(新羅統一時代)第三編部(高麗時代)とある重要部分に渡って、悪名高い今西龍の名のそばに腰元みたいにはべった李丙の名がつらなって、国人の名をはずかしくしている。今西龍は偽史シンジケートの元凶だが、日本人として日本の政府に従ったとも云え、いわば戦争犯罪者に当るにすぎない。しかし、李のような韓国人が、その走狗になった事実は、我々が黙視できるものではない。国史を救うための苦肉の計で振舞ったというならともかく、実は元凶の今西龍をしのぐ所業をしているのだから、千秋に筆誅の対象とすべき奸物だ。しかも、彼は売国奴李完用と同じく、牛峰李氏の血につながる近親だから、総督府の要職である修史官補に出世したいきさつは、容易に想像できる。彼はみずから進んで国士破壊の犯人になったのだ。
 されこんな訳で、この連中がやったことは、この本にちゃんと書いてあるんだが、もう一つ、史料借入地方別冊数調(九三‐四頁)を見てみよう。
 全く嘘八百で、よくこんな空々しい事が書かれてあると思うだろう。まず合計四、九五〇冊というのは嘘だ。当時、全国の坊坊と谷谷では、一冊の史書を隠滅しても、反日分子として拷問にかけられた。この圧制の下で、韓国のすべての史書をかき集めた総数が、わずか四、九五〇冊であった筈はないからだ。
 しかも押収した事実を借本したと書いている。日本のたとえは、借りたまま返さないことを、お貸し下されと云うのだが、強奪しておいて借用とは恐れ入ったものだ。私的に横領された珍本奇書の類はさておいても、日本の宮内省図書館と天理大学校図書館には、整理もしていない史書古籍が山のように積まれているのだ。
 親愛なる将軍よ韓民族の未来の為に私はあなたにこのことを遺言として伝えたい。」  気がつくと、もう何時間も過ぎていたのだが、私には、僅かの時間のように思われた。私達はしっかりと手を握り合い、私は老師の手のぬくもりを忘れることは出来ない。

  (三)
 老師は一九六三年九月十二日、世を去った。それは私が国事犯として死刑をあやうく免がれて、獄舎にいまだつながれていた時のことであったから実に残念であった。
 いま無量の感慨を込めて、私はこのいきさつを綴る。
 今日、韓日両国は、ソ連を筆頭にする巨大な仮想敵国に囲まれている。まさに民族史観の必要と、反唯物史観による集団的安全保障こそ急務である。
 正当な史観に基づけば、韓日両民族が血を分けた同胞だったことは明らかではないか。
 我々が糾弾し、告発してやまなかった偽史シンジケートすら、その『朝鮮半島史編纂要旨(四八頁以下)』には「帝国と朝鮮との関係は人種相同じく、その制度も分立するに非ず」と記していたのである。だから彼らは、日本の天皇家と、それを支持した豪族達が、すべて韓民族であったこと、彼らはその子孫として韓半島に逆流し、共通の史書を破壊していることを自覚していたのである。早稲田大学教授津田左右吉は、日記にチョンやヨボと書いて、韓華両族を侮辱し、選民思想によって彼の史観を作ったのであるが、のちに『シナ思想と日本』に於て、シナを差別し、韓民族を差別から外している。津田はこのとき天皇家の真相を識ったのではないか。
 私はいま、日本民族に対して、老師に託されたこの一巻を、告発の為でなく、友愛の為に贈りたい。そもそも政治も外交も有限であるが、民族の未来は無限である。虚構の歴史に基づいて、血を分けた兄弟が抗争するのは歴史的な愚挙であって、結局、第三者を悦ばせるだけである。かつて、キッシンジャー氏は来韓して「アメリカでは歴史的先例がないので試行錯誤が多い」と嘆いている。
 最も古い歴史を持つ我々韓日両民族が、偽った歴史によって未来を求めるならば、未来には破壊が待っている。正しい歴史を先例とするならば、未来は永遠である。韓民族が団結していた時は隋軍すら侵略できなかったのに、白村江で破れたのは、韓倭両民族が分裂したからである。この歴史の教訓を我々は忘れてはならない。
 『桓檀古記』によれば、倭人国家は、前七百年頃韓民族の一派である幋命が、船団五百隻を以て進駐したのが始まりである。
 鹿島氏はこのことが『旧事記』の天孫本紀に、ニギハヤヒノミコトが水軍を率いて哮峰に天降ったとなっていることを指摘した。このようにして、日本人は韓民族から別れて、倭の三島に建国したのである。韓民族の移住がなければ、日本列島には銅鉄文化もなく、神道も武士道もなかったはずだ。韓系諸族の移住当初は混乱があっても、百済の大移動を境に日本はその後長く自立することができた。
 しかし、将来に於て、日本人はもう一度、別の土地へ行って建国することができるだろうか。殖民の時代は去ったのである。自ら国家を守らなければ、ボートピープルと「さまよえるユダヤ人」の歴史があなたがたを待っているのではないか。迫害され、虐待されながら、亡びゆく暗い歴史が――。
 だから日本人の未来には二つの選択があるのではないか――偽史によってアフガニスタンのように占領され、或いは奴隷となり、或いはさすらいの民となるか。真実の歴史によって韓民族と協力して独立を守るかという――。そしてこのことは、実は我々韓民族にも関係があるのである。いまこそ歴史を教訓として、世界に我々の未来を築こうではないか  聞けば、京都の華族・冷泉家が勅封を破って古文書を公開したという。これらの文書は、いまや天皇家の私物ではなく、日本民族の財産だから、この処置は正当で、遅すぎたとも云えるのである。思えば、考古学者児玉正五郎が仁徳陵の周辺を調査して弾圧され、モスクワで客死してからも長い年月がたった。しかし、私がこのさ際お願いしたいのは、総督府が韓民族から奪った史書を返して欲しいことである。それは、我々の至宝であるとともに人類の財産だからである。
 ナイル上流の古代美術を保存するために遠くエジプトまで出掛けて行って協力した日本人が、どうして、韓民族の史書を掠奪して返さないのだろうか。日本人は日本国家が韓民族によって作られたことを恥じるからなのか。天皇家が韓人でなく、自生の縄文人であるという虚構が果たして誇りに値するだろうか。アメリカ人は、メイフラワーの一族であることをかくして、アメリカ・インディアンの子孫であるとは主張しはしない。われわれは掠奪された文書がなくても、既に正確な歴史を復元してきた。だから文書の返還を求めるのは、虚構の暴露のためでなく、韓日両民族の名誉と友愛のためなのである。まさに、そのことによって、偽史の犯罪である日韓併合の悪夢に精神的感情的に終止符を打ちたい。  おわりに、この機会に、日本列島に生活する同胞諸君に語りたい。
 古代日本では、早くから日本に渡った韓民族を「フルキアヤヒト」と云い、あとから渡ったものを「イマキノヒト」と云った。そして、彼等が協力して黒い土地の上に今日の日本国家を建設したのである。
 この用語を借りると今日の日本人はすべて「フルキ韓人」であり諸君は「イマキ韓人」なのである。従って、生活や習慣の相違は、移住の前後を示すにすぎないということを識って欲しい。
 文化の流れ、民族の流れ、冷静に考えれば、歴史は韓主倭従であった。どうかこのことを自覚して民族の誇りを忘れないで欲しいのである。


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Last-modified: 2005-07-30 (土) 00:27:10 (4646d)