文禄慶長の役、秀吉軍と戦った朝鮮軍・民兵の碑――靖国神社境内に「北関大捷碑」」(『サンケイ新聞』1983年8月15日)

平成17年6月29日掲載

 十六世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵で有名な文禄慶長の役で、当時の朝鮮軍・民兵の戦いを標した石碑が明治時代、日本に運ばれ、現在、東京・九段の靖国神社境内にひっそりと安置されていることがわかった。
 この石碑は「北関大捷碑」と呼ばれ、高さ一八七臓幅六六臓∪个慮さ一三造如¬鸚藐淺瓦諒源が刻まれている。
 碑文によると、文禄慶長の役(一五九二年−一五九八年)で朝鮮に侵入した小西行長や加藤清正らの秀吉軍に、正規軍でない土着の人々が立ち上がってゲリラ戦を挑み、秀吉軍を追い返したという義兵の活躍を標している。そして義兵を指導した八人の名を刻み八義士としてたたえている。戦争から約百年後の一七〇九年に現在の平壌近くに建立されたもので、東京韓国研究所の崔書勉院長によれば、文献にない記述もあり、学問的にも貴重なものという。

※崔「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(『韓』7-2、1978)は、該碑文を『農圃先生文集』所載の「臨溟大捷碑」と対照しており、さらに「(前略)李殷相先生を訪ね、以上の事を報告したところ、(中略)農圃先生文集の朝鮮国咸鏡道臨溟大捷碑銘の部分を提示され、靖国神社にある咸鏡道壬辰義兵大捷碑が表現の相異はあるが、内容の一致していることを教示して下さった。」と記し、本新聞報道中の「文献にない記述もあり、学問的にも貴重」との主張と傾向を異にする。また崔はこれに続けて「(前略)尹卓然の名が、靖国神社のそれには刻まれていなかったことを発見し(後略)」と述べており、むしろ北関大捷碑に無い記述が文献にはあることを自ら記している。これもまた、本新聞報道中の主張と、齟齬を来すと言わざるを得ない。
なお、咸鏡道が平壌に近いか否かは、主観の範疇であろう。

 この石碑は建立から二百年も経った一九〇五年、日露戦争のため朝鮮に進駐した第二師団第十七旅団長の池田正介少将が発見、翌一九〇六年に東京に持ち帰った。
 この石碑がなぜ靖国神社に安置されたかはナゾのままだが、韓国では、この戦いで活躍した義士の子孫を中心に、最近石碑の返還を求める動きが出始めている。
 返還を要望しているのは義士の一人である鄭文孚の子孫で韓国文教部局長の鄭泰範さんら。
 鄭さんは今年二月訪韓した「韓国ソウル・オリンピックを祝う会」の代表、静岡県清水市半左右衛門新田四四、会社社長、星山学さん(五六)に、石碑の確認と返還を依頼した。星山さんの話では、鄭さん以外の他の子孫も返還を要望して祖先の墓の横に敷地を確保している人もいるという。
 これに対し靖国神社側は、日露戦争後八十年近くも経っていることから、国際的に見ても所有権が神社側にあることは問題ないとしている。しかし、同神社の鈴木忠正権宮司は「民族的に見てもお返しするのがスジと思います。本来なら当時置かれていた場所に返すのが一番いいと思う。しかし、それだと平壌近くになってしまい、国交のない北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との問題もあり困っています」と頭をかかえている。
【笠原 文夫記者】

※星山学について、『静岡新聞』1992.10.01夕刊は、「一日午前五時十分ごろ、静岡市登呂二ノ七ノ五、会社会長星山学さん(63)方から出火し、鉄骨モルタル二階建ての二階住宅部分六十三平方メートルを焼いた。けが人はなかった。」とある。年齢的に整合し、『サンケイ新聞』記事中の人物と同一であると考えられる。他方、『静岡新聞』1994.04.25夕刊は、「二十四日午後十一時二十五分ごろ、志太郡岡部町内谷の国道1号バイパスで、静岡市登呂二ノ七ノ五、重機リース業星山学さん(62)運転の軽ワゴン車が中央線を越え、対向してきた磐田市下大之郷、運転手松浦雅之さん(26)運転の大型保冷車と正面衝突した。星山さんと、助手席に乗っていた妻の菊子さん(62)は胸や頭部などを打って即死した。」と報じ、住所が同一であることから同一人物と考えられる一方で、年齢の不整合が見られる。


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Last-modified: 2005-06-29 (水) 23:06:38 (4797d)