北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略(日本歴史叢書 日本歴史学会編集)』(吉川弘文館、1995)

平成17年6月29日掲載

p.274(エピローグ)

(前略)
 これら日本に連行きれた人々のほか、冒頭にも述べたように、朝鮮に骨を埋めた沙也可=金忠善らの降倭がいる。降倭の実態についてはいまだ十分明らかになっていないが、肝心なことは、心ならずも侵略戦争に動員される中で豊臣政権に批判的となり、朝鮮側につく道を選んだことである。
 ここに秀吉の倭乱に巻きこまれた人々がそれなりの人生の岐路に立つのをみるのであり、「英雄・偉人」とは次元を異にした、この時代の多くの人々の歴史がある。これは今後とも明らかにしていく課題である。
 ところが、冒頭にも述べたように、近代において、日本帝国主義者とその御用学者は降倭沙也可を歴史から抹殺しょうとした。同じようなことがらは、靖国神社にある「北関大捷碑」をめぐって起きていた。

   2 靖国神社の朝鮮義兵顕彰碑
 靖国神社遊就館の前に「北関大捷碑」と銘された石碑が立っている(「北関」とは咸鏡北道、摩天嶺<吉州の南、城浄の西>以北の地域)。それはSL蒸気機関車の脇の鳩小屋のそのまた脇にあって、その気になって探さないと判らない。
 この碑文は秀吉の第一次朝鮮侵略のさい、咸鏡北道吉州一帯で加藤清正の軍と交戦し、清正軍を撃退した義兵将鄭文孚の功績をたたえたものであり、もともと咸鏡北道吉州牧臨溟駅にあったものである。それを日露戦争のあと、この地域に駐留していた北韓進駐軍司令官後備第二師団長三好成行中将が、一九〇七(明治三八)年、凱旋の土産として振天府(明治天皇の意志によって日清戦争および台湾の役の戦利品を陳列するために皇居内に設けたもの)に献上するため東京に運ばせたのであった。さらにこの碑文を朝鮮から東京へ運ばせた三好中将のもうひとつの意図は、清正撃退の記念として建てられたこの碑文が日本・朝鮮両国民の感情を害するものとして、それを撤去することにあった。

※この段の誤に関しては、北島万次「(研究ノート)壬辰倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義――靖国神社にある「北関大捷碑」をめぐって」『歴史学研究』639、1992に付した解説を参照のこと。

 この碑文が東京に運ばれた直後、古谷清なる人物が「北関大捷碑について」(『学鐙』一二−二、一九〇八年二月)と題する一文を発表した。古谷は「北関大捷碑」の全文を紹介し、「北関大捷碑」にある義兵の戦捷は事実か否かを問題とした。そして、「清正記」「清正高麗陣覚書」などをもとにし、つぎのように結論づけた。つまり、北関での清正の行動には、碑文に書かれているような大敗の跡ほなく、大敗したのは鄭文孚の側であり、碑文には史料としての価値はなく、碑文建設の目的は朝鮮側の敗北をおおい隠すことにあった、と。

※「この碑文が東京に運ばれた直後」とした上で「一九〇八年二月」発行の雑誌を提示しており、北島は1907年招来説を採っていることが分かる。
 なお、古谷は、決して北島の筆によるが如く安易に北関大捷碑の記述の検討を行っているわけではない。古谷は「殊に此の碑は壬辰の役後一百十六年を経て(我宝永六年肅宗の即位三十五年)建られたるもの従て史料としては数等を下るべきものにして要するに壬辰の役に於ける戦敗弥縫の為に建られたるに外ならずと云ふべし。猶韓国に於いては肅宗の時代前後に於いて盛に、此種の建碑の挙ありたるが如し。」と記しており、北島の「史料としての価値はなく」「敗北をおおい隠す」などと述べているわけではない。

 しかし、鄭文孚の清正軍撃退の史実については、鄭文孚の状草(戦闘報告書案文)などをまとめた「農圃集」や「朝鮮王朝実録」にみえている。また、朝鮮総督府朝鮮史編修会の『朝鮮史』編纂の過程でもその史実が固められ、さらに池内宏は一九三六年に刊行した『文禄慶長の役 別編第一』の「第五章 加藤清正の咸鏡道経略」で鄭文孚ら咸鏡北道の義兵の清正軍撃退を論証している。

※池内は、当該部分において「この間の事実を伝へし朝鮮側の文献の一にして、しかも邦人の間に知らるゝものに北韓大捷碑あり。(中略)文の撰者は崔昌大にして、崇禎甲申後六十五年、即ち壬辰役と相距る百十数年後に立てられたる碑なり。されば史料としての価値の卑きは勿論なれど、大体の事実を通観するに便なるを以て、」と前提を示した上で論述を行っている。池内の北関大捷碑の史料性に関する理解は基本的に古谷と異ならない。

 およそ戦争についての歴史は彼我双方の史料を厳密に検討することによって、はじめてその全体像が明らかになるものである。ところが、鄭文孚らの戦捷は事実でなく、清正の戦捷こそが史実であるとした古谷の場合、論拠とした「清正記」「清正高麗陣覚書」が清正の功績をたたえる目的でまとめたものであることを考慮した史料批判もせず、一方的な歴史像を構築したのである。ここに古谷らの史料取扱いの幼稚さをみるものであるが、問題はそれだけにとどまらない。

※北島は、史料以前に先学の研究さえ恣意的に誤解しているのであり、彼が先学に対し「一方的な歴史像を構築した」「古谷らの史料取扱いの幼稚さ」などと指摘する能力があるか否かには、つねに留意する必要があろう。

 時、まさに日韓併合の直前であり、「北関大捷碑」が朝鮮に置かれていることが、日本・朝鮮両国民の感情を害するものとして、それを略奪し叡覧に供えようとした三好中将の意図とあわせ考えるとき、朝鮮の植民地化をめざしたかれらは、清正が鄭文孚に敗北した(日本が朝鮮に負けた)史実を朝鮮民族の目から隔離することを意図したともいえよう。

※この段の誤に関しては、北島万次「(研究ノート)壬辰倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義――靖国神社にある「北関大捷碑」をめぐって」『歴史学研究』639、1992に付した解説を参照のこと。

 「北関大捷碑」のことといい、先の降倭沙也可=金忠善のことといい、帝国主義は、史実の確定を基礎とする歴史学の方法に関係なく、幼稚な「歴史学」を動員してまで、自己に都合の悪い史実を抹殺・隠蔽し、歴史の歪曲にかかったのである。

※先学の研究を恣意的に誤解する北島が述べる「幼稚な「歴史学」」とは、むしろ自らへの警句であろうか。


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Last-modified: 2005-06-30 (木) 00:29:53 (4621d)