概説と問題の所在 †平成17年5月25日
該碑は、文禄の役の末期に朝鮮に蜂起した民兵(後の所謂「義兵」)を顕彰するため、百十余年後に建立されたものであり*1、現在靖國神社が所有し、これを保存している。 平成17年5月6日、日韓外相会談において、韓国外交通商部長官潘基文は、該碑の「返還は日韓関係、ひいては南北関係の改善にも資する、日本側の積極的対応を期待する旨述べ」たという*2。しかしこの段階では、南北朝鮮の合意は未成立であったらしい*3。所有者である靖國神社は、かねてより「大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国間で調整がとれ」ていることを「返還」の前提として示しており、韓国側は日本に「積極的対応を期待」する以前になすべきことがあったのは言うまでもない。しかしながら、韓国側から見た場合には、前提すら充たし得ない状態であっても、外交の場で語る必要性を該碑にみとめたのであろう。 ところで、該碑に関する言説を過去に遡って調査すると、該碑の来歴について、複数の説が存在していることがわかる。 しかしながら、現時点までに於ける該碑に関する韓国側メディアの報道は、あるいは「略奪」と断じ*4、あるいは「強奪」と断じ靖國神社は該碑を「放置」しているとするなどが主流であり*5、靖國神社が保管し続けたことに感謝する論調は聞いたことがない。そして、「返還」後に、韓国側メディアの報道が急転することは、よもやあるまい。 話は変わるが、皆様は、韓国における一つの神話をご存じであろうか。
との記事を、日本人による盗掘を語る文脈の中で引用している。句読点や旧仮名使い等はひとまずおくとして、この引用文を原典に遡って確認すると、
とある。「ちょいちょい自ら開城に出向いて買い集めて来た」と「ちよいちよい朝鮮人が持つてくるのを買ひ取り」の文意が同一でないのは、自明であろう。朝鮮人の行為は、斯様に、注記なく省略され、覆い隠されるのである。 ここで、話を北関大捷碑に戻そう。 では、根拠が提示されないのは、「略奪」に関してのみであろうか。そもそも、種々の言説は、如何にして発生したのであろうか。
と述べている。1907年は言うまでもなく明治40年であり、明治38年は1905年である。しかし、「日露戦争のあと」と明言する以上、北島は1907年を東京招来年と考えているのであろう。この「1907(明治38)年」との誤記は、他の北島著作にもみられる。「(研究ノート)壬辰倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義――靖国神社にある「北関大捷碑」をめぐって」(『歴史学研究』639、1992)には、
とある。『考古界』5-8は1906年2月の発行であり、「翌年」との記述は誤りである。また、「1907(明治38)年」との記述も誤りである。そもそも、1906年1月発行の雑誌に、1907年の出来事が記録され得無いのは、言うまでもあるまい。 北関大捷碑を廻る言説は、斯くも杜撰なものなのである。 さて、本siteは、最終的には、北関大捷碑の来歴に関する種々の史資料を公開する場とする予定である。しかし、現時点では、敢えてそれを行わない。すでにそうであったように、史資料に基づく史実の究明より先に、その史資料を援用した幾多の新たな言説の現出することになりかねない。これを深く危惧するからである。 最後に、朝鮮の「義兵」を顕彰する碑は、戦前から靖國神社で保管・公開されつづけている。「義兵」を顕彰する碑さえ、破壊されていない。こうした現実と、「返還」要求と並行する韓国メディアの報道を併せ考えると、該碑は日朝(韓)関係の、一つの縮図なのではないかと思われるが、如何。 なお、2005年5月23日に至って、ようやく『産経新聞』が、該碑「返還」に関して、「識者からは「反日宣伝に利用されるだけ」と慎重論も出ている。」とし、問題の一端を伝えた。この報道は、出典表記に極めて基礎的な誤謬があり、記者氏には再勉強を望みたいところではあるが、大筋では、我々の予てからの主張を踏襲するものであり*7、これが報道されたこと自体は喜ばしい。願わくば、風説収拾の端緒となって欲しいものである。 ※本siteの本旨では無いため付記に留めるが、北関大捷碑記述の史料的価値、特に文禄の役研究におけるそれについては、これを高く評価する研究者も存する。しかしながら後世に建立された顕彰目的の碑とその他事後編纂物の記述の一致を以て妥当性の根拠とするなど、安易な点もみられる。池内宏(1936)のように「崇禎甲申後六十五年、即ち壬辰役と相距る百十数年後に立てられたる碑なり。されば史料としての価値の卑きは勿論なれど、大体の事実を通観するに便なるを以て」とする使用法が、穏当であろう。また、文禄の役研究以外に目を転じれば、護国生(1905)による「もとより針小棒大の記述なるべけれども、亦以て、史料の缺を補ふに足るべく、殊に、当時朝鮮人がこの僅かなる戦捷に対して、如何に誇称し、且つ、満足せしかを知るに足るべし。」との解題も亦至当であろう。 |