木村延夫 先生 殿

約束した通り、答弁の手紙を送ります。韓国では三月から春学期が始まり、また私が仕事のため忙しくて返書が遅くなりました。この点、了解してください。何よりも詳しい質問を送らせて頂いて、本当に有り難うございます。ただ、質問内容の一部が私の立場について激しく攻め立てるというか、また“捏造”という言葉があまりにも使えられすぎる、と感じました。私は貴下の質問の趣旨について先に尋ねましたが、まだその返事を頂くことができません。しかし、時間的に遅れる恐れがありまして、とりあえず質問について私の理解した範囲から答弁します。 次のように、質問の順序によって答えます。

2005年 3月 14日*1
ソウル大学 国史学科 教授
李泰鎭

1。內田文書(機密第51号)がすでに市川正明の『日韓外交史料』に収録されているのは知っています。しかし、その文書の中でもっとも重要なものである「見取圖」が、その文字が解読されない状態で『日韓外交史料』に載せられています。よって、その文書の説明している事実がその意味を読者に伝えることができないです。私も報道の後に、初めての公開ではないという反論の提起を予想し、それについて記者に意見を問いました。彼は、この形としては内容を捉えることができないので、私が提示した原本サイズの地図が韓国では初めて公開されるものとして見なしても良いという意見を出しました。従って、"初公開"として報道されるようになりました。私は関連資料を1997年8月に日本外交史料館で自ら閱覽してから複写を申し込みし、何ヵ月後にソウルでそれを受けてみました。

2。『朝鮮日報』記事の資料は主に私が提供したが、記事の叙述は全的に取材記者が担当したのです。詳しい描写は記者が他の資料まで参照して自分なりに書いたのです。"刀に刺され死亡した"というのは、記者が前後状況及び他の目擊記に基づいて作成した表現でおり、私が直接説き及ぶ文章ではないです。提供した文書には"此の處で殺害に遭った後"という記述があり、それに基づいて作られた表現のようです。
私は日本語にあまり詳しくないので、“引出”に関する日本語と韓国語との叙述上の相違、またそれにある程度の問題点があるのか、判りません。しかし、これぐらいの表現上の問題点を“捏造”と指摘するのは度が過ぎる批判ではないかと思います。韓国ではこのような場合に、“錯誤”または“誇張”という用語を用いるのが一般的です。

3。機密文件『韓國王妃殺害一件第2冊』とはそれが現在の機密文件だという意味ではない。內田文書が元々“機密第51号”とされているので、記者がそのまま載せたのです。また、文書の公開以前には機密級として捉えられていたのも事実です。

4。私が1997年8月に日本外交史料館で複写を申し込みし、後に送らせてもっらた資料が5ページだったから、記者はそのページをそのまま述べそうです。

5。貴下が指摘した‘由’字がどんな意味なのか教えてください。私は本文書の中でその文字を見つけることができなかったです。ただ、この文書が単純に他の人の伝言によって作成されたものではないという傍証はあります。この文書は原本の形で日本天皇に直接に報告されたということが確認されます。他の人からの伝言による信憑性の低い報告書を天皇にまで報告するほどの無責任な日本政府ではなかったと考えられます。
別に添附した原文書の複写本から見られるように、この文書は ‘再朝鮮國日本領事館’ という表記が刷られている用紙を使え、文書の上段に決裁の過程が表示されています。それによると、この報告書は1896年1月4日に外務省の政務局が受付し、すぐに次官(原敬)と大臣(西園寺、文部大臣代理)の決裁処理を受けました。次に1月11日に宮內省の侍從長を経て天皇に上奏されている過程が表示されています。弑害事件の経緯が日本天皇にまで報告されたというのが文書上に確認されていることは初めてです。このような事実は資料集として刊行された市川正明の『日韓外交史料』のなかには全然表示されていません。これが朝鮮日報の記事に反映されていなかったのは、原文書の伝達過程において問題があったからです。この点は私も非常に惜しがっています。

6。「見取図」には侵入経路が線を以て表示されています。よって、記事に大きな誤りはないと考えます。“由”字と“伝聞”の問題については上の質問5の答弁に代ります。また、"景福宮に乱入した日本人たち“に関しては內田の第1次報告書に詳しく述べられています。記者はこの文書だけではなく、他の1次文書や日本人の目擊記までいろいろ参考したと知っています。貴下の質問のなかでこの問題について“捏造”という表現を度々用いたのは適切ではないと思われます。

7。日本外交史料館に収蔵されている「見取図」の原本は細密であるという評価を受けることができる、と思っています。

8。当時高宗が長安堂にいたのはロシア人パーチンを始めて他の目擊者の記録にも言及されていることです。ここでも事実を確認する前に“捏造”という言葉が依然として用いられているのは遺憾です。貴下は「見取図」に(1)が明示されているとしたが、それを具体的に指摘して教えてください。私にとっては見つけることができないです。また、內田の說明にも“図中に示せん(1)”と説いています。

9。上の5の答弁を参考してください。天皇にまで上がった文書なら、関係者たちがそれを事実として認めたことと見なしてもよいと考えられます。

10。內田第1次報告書によると、日本人たちが景福宮の正門の光化門を通過する時に、日本守備隊の助けによって門を壊して入ったとされています。記者は、これは軍事作戰と似ていることで見なしてもよいではないか、と質問してきました。第1次報告書と他の目擊記によると、当時乾羌椶琉貘咾騒乱の場になったというのは事実です。
小早川などの日本人の弑害加擔者たちの目擊記が一様に王后を弑害した場所が坤寧閣の室內だとし、今まではそのように知られてきました。第2次報告書は『日本外交文書』に收錄されておらず、市川の『日韓外交史料』にようやく公開されました。しかして上に指摘したように、その実狀についてはきちんと知られてない状態だので、旣存の見解が修正されなかったのです。何れにせよ市川以前までは隱閉の意図があったと判断する余地があると考えられます。

11。上の1と5の答弁を参考させたいです。市川正明の編纂作業は全体的に素晴らしいものであるが、残念ながら内田の第2次報告書の場合は上のような重大な瑕疵があります。

12。第2次報告書は明治28年12月21日字に作成され、本国の外務次官の先に送られました。明治29年1月4日には外務省政務局が受付し、次官(原敬)と大臣(西園寺、文部大臣代理)が決裁した後に、1月11日には宮內省の侍從長を経て天皇に上奏されました。廣島裁判所の最終判決はその後の1月20日に成りました。
『朝鮮日報』の記事に29年1月4日字が択ばれていなかったのは故意ではないと思います。ただ、日本政府の役人がこの文書の事實を公式的に取り扱った時点を、28年12月21日字と提示したこととして理解されます。今度、第2次報告書が1月11日に天皇に上がったという事實を知るようになったから、私は次のような解釈も可能であると考えています。すなわち、1月11日にその事件に関して天皇に上げた報告を、日本政府の判斷の終決点として見たから、9日後の1月20日に廣島裁判所の「朝鮮事件豫審終決決定書」ができたという推論も可能です。そうすると、その事件の眞相は明治政府の首腦部のみならず、天皇までの皆が知っていたという話になります。

13。全3冊ではなく、全4卷として間違えて報道されたのは全的に私の誤りです。私が日本外交史料館から受けた『朝鮮王妃殺害一件』コピー本はすべて6冊でおり、I-1・2、II-1・2、III-1・2として分冊されています。因みに、私が記者に「見取図」を見せる時に、このコピー本全体を確認することができなかったのです。それ大部分が自宅に保管されていたが、その時大学の研究所の仕事で忙しかったため、記憶によって4冊ぐらいと言ったのがそのまま記事に載せられるようになりました。記事の完了前に正しい冊数を確認して教えていなかったのは失策です。また、外交史料館で調査する時に私のノートに記録したものが、原文のコピー本に代って記事に載せられたことも同じ訳からです。ここに添附したような原文コピー本が新聞社に着いたのは記事作成から6時間も過ぎた後でした。

14。‘御'はもとは私のノート記録にはあったが、新聞のインターネト画像では切られそうです。22日を23日に書いたのは私の誤りです。

いろいろな指摘に感謝します。


*1 日付は14日だが、返信されたWordファイルのタイムスタンプ、こちらへの着信日は3月18日となる。

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Last-modified: 2005-06-19 (日) 17:50:52 (4722d)