李舜臣という人物が居る。中国の南宋において、華北を支配した金国への抗戦を主張した人物の一人であり、子の李心伝ともども、比較的よく知られている。心伝は『建炎以来繋年要録』の編者であり、中国史研究者は少なからずお世話になる。舜臣は、易関係の著述も有るが、『江東十鑑』の執筆者としても広く知られている。ある意味で非常に困った人物であるので、興味のある方は『宋史』李舜臣伝をお読み頂きたい。&br;
 さて、彼とは別に、約400年後の李朝にも同名の人物がいた。今から述べる李舜臣は、李朝の方のそれである。&br;
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 李舜臣、現在の韓国では、護国の英雄の如く語られることが多いようである。文禄慶長の役(韓国では壬辰丁酉倭乱)の際、王すら逃げ去らんとした朝鮮において気を吐いたことになっている人物であり、明の援軍と共に日本との戦いに従事している。戦略的目標の達成にどのような寄与をしたのか詳らかではないが、何らかの必要からか顕彰せざるを得ないのであろう。地方からの「報告」の事実性の検証は、別途おこなわれるべきであると思うのだが。&br;
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 それはともかくとして、ネット上に於いて韓国人が李舜臣を語る際、東郷平八郎が「李舜臣に比べれば自分は下士官にも値しない」と語ったであるとか、あるいは「日露戦争時、海軍が鎮海湾を出航する際に、日本の士官が李舜臣将軍の霊に祈った」等と述べ、李舜臣は日本の海軍軍人も認めた英雄であるという論法をとることが往々みられる。その出典を問うと、司馬遼太郎『坂の上の雲』があげられることが多い。小説を根拠とするのは如何な物かと思うし、同小説は別の小説――川田功『砲弾を潜りて』が典拠であると載せているのであるから、最低でも、『砲弾を潜りて』((博文館、1925年))を読むべきである。もっとも、韓国では金泰俊あたりでも『坂の上の雲』までしか調査せず(あるいは「出来ず」)に論文を書いてしまう水準なのであるから、そういうお国柄であると思っておくしか無いのかも知れぬ。小説を小説であると明記せずに論拠として用いるのは、彼の文定昌も得意とした所である。&br;
 たしかに『坂の上の雲』中には「この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、「李舜臣提督の霊に祈った」という記録が書いていたものがあったように筆者は記憶していた」とか、「「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある」と書かれている。しかし『砲弾を潜りて』の原文を確認すると、主人公である水兵京文吉が、日本海海戦で負傷し痛みをこらえる時の話として、「殊に此時文吉を動かしたのは、李舜臣が日本から打つた弾丸で左肩をやられ、流血淋漓縷となつて踵に注いだのに、舜臣黙して苦痛を口にせず、戦罷みて後始めて刀を以て肉を割き、丸を抽出したが弾丸数寸の深さに入つて居つて、観る者面色墨の如くなつたのに、舜臣自若として談笑して居つたと云ふ事である。一度此事を思ひ出すと、文吉の忍耐力は十倍し、突刺して来る様な痛みに逢ふ毎に、彼は心の中で舜臣々々と呼んで、痛みに堪へる勇気を振起させた。偉大なる古英雄の遺業ではないか、三百年後の今日舜臣の名は文吉の痛みを軟げる力となった。」とあるだけなのである。鎮海湾を出るときでも無いし、艇長が祈るシーンも無い。一水兵である文吉の「痛みを軟げる」のが「遺業」とされるとは、いくら李舜臣と雖も「お気の毒」な話である。小説の記述上、幸か不幸か、文吉の乗った船はちょうど朝鮮出兵の古戦場である蔚山の東方にあったためか、文吉は李舜臣を思い出すのである。&br;
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 さて、こうした李舜臣関連言説については、既にpolalisによる調査があり、tokoi氏により公開されている。polalisは、誤字や誤入力が多いのでいつか改訂したいと述べているが、未だなされていない。公開URLは下記の通りであるが、その点を承知の上で参照されたい。&br;
>http://kaokaosama.hp.infoseek.co.jp/YiSunsin.html
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 ところで、小説を無批判に根拠に用いるのを笑うのは簡単だが、日本側にも問題が無いわけでは無いように思われる。朱に交わって赤くなる人々が、後を絶たないのだ。&br;
 たとえば、件の司馬遼太郎を明らかに参照し、原典を調査せずに小説等を書き上げる日本人も存在する。世の中、手抜きをする馬鹿は多いのである。数例を挙げれば、藤居信雄は『李舜臣覚書』((古川書房、1982))に「鎮海湾にひそんでバルト艦隊を待ちうけていて、いよいよそこを出動しようとするおり、ある水雷艇の将校は、李舜臣の霊にひたすらないのりをささげている」と書いているし、片野次雄は『李朝滅亡』((新潮社、1994))に「川田少佐は、朝鮮水軍の雄である李舜臣の霊に祈った。」と書いている。仮に彼らが『砲弾を潜りて』を読んだ上で、この様にしか読み取れなかったとするならば、日本語能力に大いに問題があると言わざるを得まい。&br;
 敵将を尊敬するといった類の話を日本人は美談として好みがちのようだ。しかし、気持ちよければそれで良いというものではあるまい。他にも、この手の孫引きを主張の道具にしているお歴々が少なく無いので、要注意である。なお、藤居信雄『李舜臣覚書』を孫引きして脇坂安治と李舜臣を語る韓国人も居るが、藤居氏は『脇坂記』の部分引用をしているにすぎない。『脇坂記』を通読すれば、全く話にならないのが分かる。閑な方は、一読するのも良いであろう。&br;
 実のところ、当の司馬氏にしてみても、『坂の上の雲』連載時((『坂の上の雲1187回』(サンケイ夕刊、1972年3月27日) ))には、川田功を「水野広徳の筆名であるかもしれない。」と書き、単行本収録時になって「この時期水雷艇の艇付少尉であった。」と修正した経緯がある。その後、『「明治」という国家』初版((日本放送出版協会、1989))では、またも「水野広徳という若い士官は(中略)李舜臣の霊に祈ったといいます。」と書いてしまっている。こうなると、司馬氏が本当に川田功の著作を読んだのかすら、怪しく思えてくるのである。『坂の上の雲』に李舜臣の話が掲載されるほぼ半年前の『週刊朝日』連載『街道を行く』((『街道をゆく第33回――李舜臣』(『週刊朝日』1971年8月13日)(後『街道をゆく2――韓のくに紀行』(朝日新聞社、1972)収載))の中でも、『砲弾を潜りて』を部分引用するに際して、「「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき、当時水雷司令だった川田功という少佐は云々」と書いている。川田「少尉」は水雷司令を務め得ないし、小説主人公京文吉が李舜臣を「思い起こす」のは「「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき」では無いのは、既に指摘した通りである。&br;
 同連載で司馬氏は李舜臣について「私に語った韓国人」がいたことを記している。こうした人的紐帯は、興味深く観察すべきであると思われる。
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 なお、本コラムは、韓国側が同時代的な史料を提示できずに居ることを伝えるのみであって、東郷が李舜臣を褒めていないと断言するものではない。この点には、留意頂きたい。朝鮮半島は当時、日本国の朝鮮地方であったのだから、該地に誰かしら英雄をみとめるのは必要なばあいもあったろう。たとえば徳富蘇峰は、李舜臣をネルソンと比して、これをたたえたことがある。&br;
 なお、本文章は、韓国側が同時代的な史料を提示できずに居ることを伝えるのみであって、東郷が李舜臣を褒めていないと断言するものではない。この点には、留意頂きたい。朝鮮半島は当時、日本国の朝鮮地方であったのだから、該地に誰かしら英雄をみとめるのは必要なばあいもあったろう。たとえば徳富蘇峰は、李舜臣をネルソンと比して、これをたたえたことがある。&br;
 こうした過去の日本人による李舜臣評を、「歴史の反省」を繰り返し求める韓国人が後生大事にするのは、誠に奇矯というべきであろう。そのようなことをする暇があるならば、寧ろ個々の史実を丹念に究明する方が、将来に資すであろう。&br;
 そして、日本人もまた、「歴史の反省」をした方がよいと思うのである。「好意的な」の「知」と「思い遣り」の「情」を以てすれば友好的な付き合いができると思い込むのは個々人の勝手。しかし、その害悪を他者にも押しつけるのは、お門違いというべきものであろう。&br;


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