キャスター | 去る1895年乙未事変当時、明成皇后が日本側の暴徒たちにより殺害された場所が、これまで知られていた寝殿の中ではなく、寝殿の外の庭であったという内容の報告書が公開されました。乙未事変の三ヶ月後に作成された日本側の報告書に記載されていた内容ですが、既存の学説とは異なるということで注目を集めています。この場に、日本側の報告書を入手し公開したソウル大学国史学科・李泰鎮教授をお招きしました。ようこそ。 |
李泰鎮 | はい。 |
キャスター | 殺害場所がこれまでは寝殿の室内であったということで知られていましたけれども。そして、今まで多くのドラマでも室内で殺害された、そんなふうに表現していましたね。外へ出てきて殺害されたということですか? |
李泰鎮 | ええ、そういうことになっています。 |
キャスター | どういう内容なのか、詳しく具体的に説明して頂けますか? |
李泰鎮 | ええ、これまで殺害現場については、殺害事件に参加していた日本の浪人たちのなかの人物が残した記録が多く、それを頼りにその人たちの話にしたがってみてみると、その記録が全て「玉壺楼の室内で殺害された」このようになっていて、それに依存していましたが、このたび、その事件後に綿密な現場調査をした内田領事報告書によると、正確に順序が、その殺害現場の状態についての順序が詳しく明らかにされています。 |
キャスター | あの、殺害現場が出ていますね、今。あの画面で見てみると、坤寧閤がありますね。 |
李泰鎮 | ええ。 |
キャスター | そして明成皇后の寝室ですね?あれが? |
李泰鎮 | ええ。 |
キャスター | そして元々その寝室で殺害されたと、このように私たちの国史の本では学んできましたが、殺害された所は外の庭だったというお話ですね? |
李泰鎮 | ええ、あの…その景福宮のなかの香遠亭の後ろに、宮内、宮へ、夕刻ですね。長安堂乾清宮という所があります。 |
李泰鎮 | 乾清宮の重要な建物は、王の…国王の寝殿の長安堂、そして王妃が使う坤寧閤があって、その坤寧閤のいちばん端の部屋が玉壺楼です。 |
李泰鎮 | そして今までは玉壺楼で殺害された、このようになっていました。 |
キャスター | 日本側のその発見報告書があったじゃないですか? |
キャスター | その報告書がどんな報告書であって、信憑性が高いものなのですか? |
李泰鎮 | この報告書はですね、内田領事という人物が作成したものなのですが、この内田領事は二部の報告書を出します。 |
李泰鎮 | 最初のものは10月5日付で出したものですが、それは相当に証人たちから聴取を受けて、作成された。彼なりに、情勢に合わせて出したものですが、それが… |
キャスター | 今、お持ちいただいた文献ですか? |
李泰鎮 | ちがいます。 |
キャスター | それではなくてですね? |
李泰鎮 | 一次報告書は今までも学界で使用しました。このたび出てきたものは、私が公開したものは、その後2ヵ月後の12月21日に出てくるものですが、これは今ここで見る… |
キャスター | それを挙げていただけますか? |
李泰鎮 | はい。 |
李泰鎮 | 日本の外交史料館へ行って見るとですね、事件別に分かれて文書集があります。 |
李泰鎮 | 王妃殺害事件の文献でして、さまざまな報告書が収められているものが束ねてあります。その中に内田領事の報告書が収められています。 |
キャスター | はい。それでは、その報告書で見ると日本の暴徒たちが、実際にどのような侵入経路なのかとか、事後処理はどのようにしたのかとかどんなふうに出ていますか?侵入経路と事後処理から見てみましょうか? |
李泰鎮 | この地図で見ると、光化門から…。 |
キャスター | ああ、私どもが地図を準備しておいたのですね。 |
李泰鎮 | 光化門から入って、日本の浪人たちが入っていった所は点線で表示をしました。 |
キャスター | ええ。 |
李泰鎮 | 点線で示して、ここが乾清宮です。香遠亭の後ろに入って、そこで見るとこのようになっています。 |
李泰鎮 | この説明書が、外務次官宛で内田領事が送った説明文が一緒に添付されています。それで見てみると1、2、3、4の四ヶ所を表示して、地図に表れていない1の場所から王妃を2の場所へ引っ張り出し2の場所が長安堂。 |
李泰鎮 | その物置【蔵か納屋?】の、その部屋の裏側の庭です。 |
キャスター | はい。 |
李泰鎮 | そして、そこへ引っ張り出してその場で殺害し、 |
キャスター | はい。 |
李泰鎮 | そしてその死体を3の場所、玉壺楼です。坤寧閤の玉壺楼にしばらく安置してから4の場所、鹿山の前にもう一度引っ張り出してそこで燃やした。このようになっています。 |
キャスター | はい。では、この宮殿の左側の道へ入って寝殿まで行き、そこで事件が起こったという話ですが、 |
李泰鎮 | はい、はい。 |
キャスター | これがその時の状況に可能なことでしたか? |
李泰鎮 | はぁ、当時の日本はですね、私が見るには... |
キャスター | ええ。 |
李泰鎮 | 韓国を自分たちの水準より遅らせるには、ただちに王と王妃を無くしてしまう事だとそのように考えました。 |
キャスター | ええ。 |
李泰鎮 | その最初の作業、第一の目標が王妃であったのだろうと。私が・・・これは一年前の状況です。 |
李泰鎮 | 一年前、日清戦争が起きる前、3日前ですが、1894年7月21日に、日本軍が一度、7時間(の軍事行動で)交戦した20分間に・・・韓国軍との内政改革問題で20分間の交戦があったという事になっていましたが、 |
李泰鎮 | 実際には詳しい報告書が…日本の学者によって調査がなされたのですが…7時間の間に交戦、この作戦があったと。3時間の間、韓国軍・朝鮮軍と交戦がありました。これを見ると、日本軍が景福宮を占領した状況がこの時、ここに再現されるのです。 |
キャスター | そうですか。 |
李泰鎮 | ええ。 |
キャスター | このように、これまで間違って理解されていた、このような歴史的事実。すぐに修正作業へ入らないといけないですね?国史の本を取り替えなければならなくなりそうですね。内容を? |
李泰鎮 | ええ、私がこの事件を…この事件自体も重要ですが、当時の国王と王妃の「作られたイメージ」の問題です。王妃はものすごく極悪で権力的な女であった、こんなふうに理解されていました。それは日本人たちが、王妃を排除しようとした日本人たちが、罪を逃れるために作り出した話です。 |
キャスター | ええ。 |
李泰鎮 | (罪を)回避するために出てきた話でして、この事件、このたびの報告書に現れているように、日本人たちはそのようなやり方で、韓国史を歪曲するために多くの事実を隠蔽した。そういうことを正しく把握することが、我々の歴史に対して正しい理解が、本当に、我々の今後の正しい未来を保証するような大きな意味を為す。これをちょっと注目したいと思います。 |
キャスター | はい、分かりました。今までのお話、ソウル大学李泰鎮教授でした。ありがとうございました。 |