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**jpn1_rok0/日本における元寇の評価に対する私見 [#d8954b0c]
CENTER:#navi(jpn1_rok0)


#ref(hakosaki.jpg,center,nolink,箱崎宮)&br;
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#ref(akasaka.JPG,center,nolink,赤坂に集結する元軍)&br;
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 我々日本人は、元寇について、「日本軍は二度の元軍による侵攻において、優勢な元軍の攻撃で苦戦したが、偶然の大風(台風)によって元の軍船が破壊されたために助かった」、という類の話をしばしば聞かされる。そして、多くの少なからぬ者がそのように信じているようである。&br;
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 元寇と台風、特に弘安の役と台風を結びつける記述は、比較的古くから見られる。『一代要記』壬集は、弘安四年閏七月九日の記事として、「宰府飛脚到来、云去、朔日大風頓吹、而異国兵船悉以漂没了、是併神明之霊威、非人力之所及云々」と記しており、「大風」を「神明之霊威(神の力によるもの)」とし、「非人力之所及(人間の力によるものではない)」と見なしている。また、『増鏡』は、弘安四年(閏)七月一日の記事として、&br;「おびたゞしき大風吹て。異国の船八万艘。つはものゝりて筑紫へよりたる。みな吹わられぬれば。あるは水にしづみ。をのづからのこれるも。なく/\本国へかへりにけり。石清水の社にて大般若供養説法いみじかりける刻限に。晴たる空にくろ雲一村にはかにみえてたなびく。かの雲のうちより。しろき羽にてはぎたるかぶらやの大なる。にしをさしてとびいでゝなるおとおびたゞしかりければ。かしこには大風の吹くるとつはものゝ耳にはきこえて。浪あらくたち。海のうへあさましくなりて。みなしづみにけるとぞ。云々」&br;
と記し、「大風」と「石清水(八幡宮)」における供養説法とを関連づけている。更に、『大日本史』後宇多天皇本紀、弘安四年閏七月朔条は、是日大風、有黒雲覆石清水宮、有白羽鳴鏑、出宮西去。(中略)十四日丁丑、太宰府駅奏、本月朔、大風、元軍艦悉歿於肥前鷹島、云々と記し、同じく「大風」と「石清水(八幡)」宮」とを関連づけている。
 このように、台風によって勝利したとする説は、元寇に対する国防の成功を神の力によるもの、例えば八幡神などに帰するものであるとすることが多い。こうした説の典拠として有名なものの一つに、いわゆる『八幡愚童訓』甲本がある。『八幡愚童訓』甲本は、14世紀初石清水八幡宮社僧の著とされる。
 本書巻下には、「去程十日余比西国早馬着テ申。去七月晦日夜半ヨリ乾風オヒタヽシク吹テ。閏七月一日。賊船悉漂蕩シテ海沈ヌ。(中略)京都関東モ静テ上下ノ人々色直ケレ。是八幡ハツタト鳴タリシ時。大風吹シ時同時也シカハ、栂尾御託宣風ヲフカセテ滅亡スルトソ。西国早馬ヨリ先告玉シハカ。如何ナル不信輩モ大菩薩吹セ給タル風也ト仰悦ハヌハ莫リケリ。云々」とあり、蒙古軍を退散させた大風は、(八幡)大菩薩が吹かせたものであると主張している。
#ref(takezaki.JPG,center,nolink,竹崎季長)&br;
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 一方、敵である高麗に関する記録『高麗史』金方慶伝には、台風が敗北の主要な原因とは書かれていない。第一回目侵攻(文永の役)においては、蒙古・高麗軍は撤退を決定して(忽敦曰(中略)不若回軍)船に乗り込んだ時に暴風に遭い(遂引兵還会夜大風)、多くの軍船が破壊されたとある(両戦艦触岩崖多敗&#20353;堕水死)。また、第二回目侵攻(弘安の役)では、九州上陸は優勢な日本軍に阻止されてことごとく失敗し(日本兵突進官軍潰茶丘棄馬走王万戸復横撃之斬五十余級日本兵乃退茶丘僅免翼日復戦敗績)、伝染病により3000余人が死亡し(軍中又大疫死者凡三千余人忻都茶丘等以累戦不利)、南宋軍との合流もできぬまま、軍船の破損もひどくなり食糧も尽き、もはや戦争を行える状態ではなくなっていた。このため、九州上陸を諦めて本国に帰還する建議がなされた(且范文虎過期不至議回軍曰聖旨令江南軍与東路軍必及是月望会一岐島今南軍不至我軍先到数戦舩腐糧尽)が、退却は行われず、後の議論では、なお一月分の食糧があるとして、南宋軍が来るのをまって日本を攻めるという主張がなされた(旬余又議如初方慶曰奉聖旨費三月糧今一月糧尚在俟南軍来合攻必滅之諸将不敢復言)。しかし南宋軍は台風のため大損害を受け、攻撃の再興ができぬまま撤退した(既而文虎以蛮軍十余万至舩凡九千艘八月値大風蛮軍皆溺死屍随潮汐入浦浦為之塞可践而行遂還軍)。

 以上、蒙古・高麗連合軍は第一回目、第二回目ともに九州沿岸に橋頭保を確保することに失敗しており、日本軍は敵軍の内陸侵攻を完全に阻止していることから、作戦的には日本軍の勝利であり、特に第二回目侵攻は、本土に対する上陸作戦そのものを完全に阻止していることから戦略面だけでなく戦術的にも日本側の圧勝であった。
 ここには、『八幡愚童訓』甲本等にみられる日本軍の惨敗や苦戦という状況は見られず、むしろ有利に戦闘を進めている。この勝利したはずの日本側による「日本軍苦戦」の記述は何故なされたのであろうか?
 
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#ref(oyano.JPG,center,nolink,大矢野三兄弟)&br;
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 まず、『八幡愚童訓』という書物が八幡神の神徳・霊験を記す書であることに注目する必要があるろう。元寇当時、朝廷は敵国降伏を祈願し、また各地の八幡宮(戦争の神)にも祈祷をさせた。つまり、朝廷としては、「元寇の勝利は、社寺の祈祷によるものである」という論理を構築する必要があったと考えられる。 また、武士団を統括する幕府もこのような朝廷と社寺の宣伝を阻止することに消極的であった。元寇が自国領土への侵攻に対する防衛戦争であるという特性から、勝利の後に新たな土地や権益が手に入ることはなく、幕府は戦功のあった武士に与える恩賞をできるかぎり少なく算定する必要があった。これが、幕府が朝廷による宣伝を阻止しなかった理由であると考えられる。鎌倉幕府滅亡の一因として、元寇の戦功に対して幕府が正当な恩賞を与えなかったため、これに不満を持った武士団が離反したという指摘があるが、実際に苦戦続きで戦功がなかったのであれば、武士団も恩賞の少なさに異議を唱えることはできなかったであろう。
 
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#ref(koura.jpg,center,nolink,高良大社)&br;
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 つまり、元寇における戦勝の功績を主張する朝廷と武士団に対する恩賞を削減したい幕府の利害が一致したものが、当時の日本国内における元寇の評価であり、それが『八幡愚童訓』甲本等の記述にも反映していると考えられよう。

最後に、日本人がこのような歴史観を持つのは仕方がないとしてもね、韓国人が自国の正史である『高麗史』よりも、寧ろ日本側の記録に基づく歴史観を構築しているのは極めて不思議なことだと思うの。李朝の編纂した歴史書である『高麗史』の記述を完全に無視するって一体何よ?と。(苦笑
 

 

写真は筥崎宮(福岡市)と高良大社(久留米市)

画像は「蒙古襲来絵詞」及びその模写



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