弾薬庫/「美女三千人」貢納言説について




 朝鮮は、清に服属した後、清朝に毎年美女三千人を貢いでいた、といった類の主張を日本人が行う場合がある。あるいは「三千人」と述べずとも、処女を毎年献上していたとする主張も見受けられる。  以下に2例を掲載する。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1633756

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=613275


 Google等で検索してみた限り、典拠はどうやら黄文雄『中国・韓国の歴史歪曲』のようである。この話題は広く流布しており、出典が明記されないサイトも多いようにみうけられる。

 では、黄文雄は何を根拠にこの主張を行ったのであろうか。『中国・韓国の歴史歪曲』には、

 朝鮮と清国の従属関係について、簡単にまとめれば、(中略)細かく定められた貢品以外に、毎年、牛三千頭、馬三千頭、各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた*1

とあるのみで、残念ながら根拠は記されていない。そこで黄氏の翌年の著作を見ると、

 李朝が毎年、宗主国へ朝貢する貢ぎ物の中にも「宦官」と「貢女」が見られた。しかし「清」に対して毎年、供出する宮廷慰安婦、美女三千人というダレの『朝鮮事情』の記述に関しては、私は多少の疑問がある。
 中国歴代の王朝の宮廷では「後宮美女三千人」が通説ではあり、晋の武帝や梁の武帝の時代は一万人を超える場合もあった。清の雍正帝のような名君は、きわめて少なかった。
 しかし、李朝時代には、それほど大量の美女を毎年、宗主国へ送る事は考えられない*2。(後略)

とあり、根拠はダレ『朝鮮事情』であるとする。ただしここでは「私は多少の疑問がある。(中略)李朝時代には、それほど大量の美女を毎年、宗主国へ送る事は考えられない。」との私見が加えられ、幾分慎重である。黄氏の近著にも、

 李朝時代が毎年、宗主国に貢女や宦官を献上していたのは史実である。西洋の伝道師シャルル・ダレが書いた『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)には、李朝朝鮮は毎年、宮廷慰安婦として「美女三〇〇〇人」を供出していたと書いてある。とはいえ、三〇〇〇人とはあまりにも多すぎると私は思う*3

とあり、「毎年、宗主国に貢女や宦官を献上していたのは史実」としながらも、「三〇〇〇人とはあまりにも多すぎると私は思う」と私見を付している。こうした意味では、毎年美女三千人を清朝に貢いだという説は、黄氏自身、既に支持していないのである。

 次に、黄氏が根拠として示した「ダレ『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)」を確認してみよう。すると、次の様な記載がある。

 朝鮮人は一般に、一六三七年の条約の一項を、満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合を見越して用意されたものだと認識している。その場合、朝鮮は、三千頭の牛と三千頭の馬、そして莫大な金額を彼らのために用意せねばならず。さらに選り抜きの娘三千人を送り届けねばならず、朝鮮はいつも諸道にそれだけの女婢をかかえているが、これは、必要な場合に条約の該項を遂行するためだと言われている。しかし、いかなる宣教師も、ついにこの点に関する公的史料を発見することはできなかった*4

 ここに明らかなとおり、『朝鮮事情』には、「各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた」と見なし得る記述は存在しないのである。ここに記されているのは、「毎年」では無く「満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合」に、「選り抜きの娘三千人を送り届けねばならず、朝鮮はいつも諸道にそれだけの女婢をかかえている」という風聞のみであり、しかも、この風聞については「いかなる宣教師も、ついにこの点に関する公的史料を発見することはできなかった」のである。

 つまり、
1)「各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた」とする説は、もともと黄文雄氏の誤読に基づく。
2)黄氏は後に自説に疑問を抱いたが、根拠とした記述の再検討までは行わなかった。
3)黄氏の説を再検証せぬまま、これを流布させる行為が行われた。
4)後に黄氏の呈した疑問も3)を止抑できなかった。
5)広く流布した結果説話として定着し、根拠や論者すら明記されない状況に至る。
という経緯なのである。

 なお、黄氏自身が邦訳版の『朝鮮事情』に基づいているのでひとまず問題は無いが、『朝鮮事情』原著の当該記述について検討することができれば、より精度を高めることにつながろう。博雅のご助力を望む次第である。


 あくまで私的な経験に基づくが、黄文雄・名越二荒之助両氏の著述は、ネット上に多く流布しているように思われる。しかも大抵の場合、未検証のままである。たとえば名越『日韓2000年の真実』*5 は黒竜会などの所謂壮士系の著作を根拠にしていることも多い。日本人は、『韓国独立運動之血史』や『白凡逸志』を読む場合には、自賛的な記述について相応の警戒をする。『東亜先覚志士記伝』については全面的に信頼するというのでは、片手落ちの譏りを逃れ得ないであろう。
 黄文雄氏についても、安易に全て信じるのは危険である。(主張に適切な根拠の有る場合も少なくは無く、時として鋭い分析を見せるとしても、である。) たとえば、『韓国は日本人がつくった』p.43には「『明実録』(永楽7年2月)に記載されている例では、明の永楽帝時代に内使の黄儼が勅使として朝鮮へ派遣され、直接美女を選んだとされている。」と書かれている。しかし実際に当該期の『明太宗実録』を確認すると、永楽七年二月己卯条に「冊立張氏為貴妃、権氏為賢妃、任氏為順妃、命王氏為昭容、李氏為昭儀、呂氏為婕茵崔氏為美人。張氏故追封河間忠武王王之女、王氏蘇州人、餘皆朝鮮人」とはあるが、黄の述べるが如き記述は存在しなのである。

 この様に、本になっているからといって、安易に信用しては危険である

 なお、余談ながら、『(李朝)太宗実録』によれば、権氏・任氏等が撰ばれたのは永楽7年では無く、永楽6年のことである。黄儼は永楽6年4月16日に朝鮮に至り、同日女子を求める聖旨が伝えられる。その後、粧いが中国風で無い等々の問題を徐々に解決し、選別を重ね、10月乙酉に漸く権執中・任添年・李文命・呂貴真・崔得霏の娘の計5名が撰ばれるのである。(もっとも、その選抜基準は朝鮮側から見ると理解できないものであったらしいが。)
 困ったことに、黄氏の誤謬を更に拡大させ、「宮廷慰安婦」と永楽帝の妃たちを同一に考える一群も居る。しかし、権永均・任添年・李文命・呂貴真・崔得霏らは3品〜5品の秩を受けている。彼らの娘を「慰安婦」呼ばわりするのは、仮に修辞であるにしても、妥当とは思えないのであるが、如何であろうか。


*1 黄文雄『中国・韓国の歴史歪曲――なぜ、日本人は沈黙するのか』(光文社、1997.8)p.128
*2 黄文雄『歪められた朝鮮総督府――だれが「近代化」を教えたか』(光文社、1998.8)pp.193-194
*3 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(ワック、2005.5)pp.43-44
*4 ダレ(著)金容権(訳)『朝鮮事情』(平凡社、1979.12)p.39
※本段中「一六三七年の条約の一項」とは、文脈上、丙子の乱(丙子胡乱)の結果朝鮮に課された歳幣に関する規定を指す。
※本段末には訳注が附されており、金容権は「このあたりの朝・清関係についての記述には、不正確な点がみられる。この時代の朝・清関係は、中世東アジア独特の冊封関係であり、朝貢とそれに対する回賜という外交行事にしても、一種の官貿易としての役割を担っていたのである。」とする。この金氏の注記には、学術的に見れば問題が多い(17世紀の中国・朝鮮が中世であったか否か、冊封下における義務としての朝貢を所謂朝貢貿易と同一視できるか、その場合榷場貿易は如何なる位置づけとなるのか、歳幣は官貿易と見なし得るか、等々)。

*5 国際企画、1997.7

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Last-modified: 2006-11-03 (金) 18:18:35 (4303d)