弾薬庫/高宗実録に見る閔妃の諡號決定経緯




 閔妃の諡号『明成皇后』が井上馨ら日本側からの働きかけによって贈られたとする言説は今でのネット上で目にすることができるが、この直接の史料を提示した例は寡聞にして見受けられない。ただ、「名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』明成社 2004年」*1pp.181下段に以下のような記述があり、この部分が出典になっていると思われる。

日本は列国との修復を図るべく、井上馨を特命全権公使としてソウルに派遣しました。彼は大院君に対して、「死ねば皆仏になる。過去を水に流して王妃の菩提を弔って、民心の安定をはかること」を勧めました。  しかし閔妃を復位させ、「明成皇后」の諡号を贈り、国葬を行なったのは、大韓帝国が誕生した後の明治三十年十一月のことでした。

 但し、この記述においても"「死ねば皆仏になる。過去を水に流して王妃の菩提を弔って、民心の安定をはかること」を勧め"た事と、"「明成皇后」の諡号を贈"った事は時系列上2年も離れた別の件の記述であり、井上の進言の結果「明成皇后」の諡号が送られたと読むのは誤読であろう。

 閔妃の死後の経緯を高宗実録、および梅泉野録から抜粋すると以下のようになる。

乙未八月二十日卯時王后崩逝于坤寧閣(後略)
二十二日(前略)王后閔氏□廃□□庶人□□□□
二十三日詔曰朕□王太子□誠考□情理□□顧念□□廢庶人閔氏嬪號□特賜□□□
十月初十日詔曰王后閔氏□復位號□□本月八月二十二日詔令□繳銷□□
初十日初十日復王后閔氏位號令法部拿獲凶犯諸賊軍部大臣趙羲淵․警務使權瀅鎭以罪免八月以後外國公使等連請鞫逆正刑弘集等藉托王后逃難依違度日及其情節稍露不可一向掩匿遂與諸外使榻前定奪頒復位討逆之勅免羲淵等於是李斗璜禹範善等皆逃
勅命向者變亂之際不知王后所在日月愈久而當日崩逝之證的矣其以八月二十日卯時王后昇遐於坤寧閣事布聞中外
十五日詔曰向者變亂□際所在□不知□□□□日月□漸久□□當日崩逝當證據□的確□□開國五百四年八月二十日卯時□王后□坤寧閣□□昇遐□□□領布□□
詔曰殯殿以泰元殿爲之魂殿以文慶殿爲之百官哭班處所景維門外爲之
十七日末時大行王后沐浴襲
十九日巽時大行王后靈床移奉仍行小斂未時行大斂申時奉梓下宮
?十五日頒國恤詔百官擧哀于景維門設殯殿于泰安殿魂殿于文慶殿十六日襲十七日小斂十九日大斂二十二日成服
 后旣復將具儀殯斂而不得玉軆之五雲閣西峰下鹿山樹林中掘地惟灰沙雜寸骨部位不可辨高陽郡有老宦年可七十餘嫺喪事以能辨朽骨稱衆招之惟其言是聽棋置于七星板掬媒灰補之錦襨數十稱拉疊絞束納之梓宮盖期成禮不必核其部位也凡三日始蕆事余聞之鄭萬朝萬朝以宮內官,同參目擊也
二十二日命大行王后諡册文製述官金永壽書寫官閔丙奭哀册文製述官金炳始書寫官趙鍾弼行状製述官鄭範朝誌文製述官尹容善書寫官李鎔改銘旌書寫官閔泳煥下玄宮銘旌書寫官嚴世永表石大字篆文書寫官金弘集金寶篆文書寫官趙秉世
二十二日宮内府議啓大行王后諡號望純敬殿號望徳成陵號望肅陵
十一月一日宮内府大臣李戴冕以大行王后梓宮銀釘上加漆逐日爲之事命下矣原定十度而五度己爲過行矣自來月初一日至初五日逐日擧行漆布上加漆依各年例亦以十度逐日進漆之意上奏制曰竝以十五度進漆逐日爲之
十五日法部以罪人朴銑等審理判決宣告上奏制曰可
(李周會他の判決宣告書は十五日条)
建陽元年八月二十三日(?)八月自景福宮移大行王后殯殿于慶運宮行初忌辰別奠上爲后力擇吉壤封標屢易而陵兆終未定至是以塟未行而練期已至,故收議于大臣儒臣儒臣宋秉璿託以昧禮不對大臣宋近洙․趙秉世․鄭範朝等引朱子說以對上遂親行別奠禮卿閔種默請詢疑禮于大臣儒賢上從之命各獻議奉朝賀金炳國中樞申應朝病未獻議,奉朝賀宋近洙以爲臣素昧禮學雖閭巷尋常儀節有難容喙况王朝罕有之變禮乎且伏見禮堂所陳數條旣有分明可據尤無容更贅特進官金炳始以爲凡有喪旣葬旣虞祭禮始備臣按喪禮備要大祥條引開元禮周而塟者塟後月小祥又朱子答曾無疑書練祥之禮當計成服月日實數其間忌日別設祭奠是皆士喪禮追行葬練之節而王朝典禮至愼且重不敢質對特進官趙秉世以爲禮卿所考喪服小記․曾子問禮疑類輯皆有的据今無容更煩而如朱子答曾無疑所云其間忌日別設祭奠始盡人情者實合援用於今日矣因封未成虞祭未行今不可以具三獻備禮則惟有別奠行事而已先儒定論可按以知然王朝禮與士庶有異惟願博詢而處之特進官鄭範朝以爲十一月而練十三月而祥而祭禮自虞而始古今之通禮也大行王后因封未行無以行練祥之節今當忌辰不可無致哀之擧臣按讀禮通考塟不以時條曰開元禮周而塟者則以塟之後月小祥又朱子答曾無疑書曰練祥之禮當計成服月日爲節其間忌日別設祭奠始盡人情此爲士相禮可以援引而王朝典禮至重且愼不敢質對前祭酒宋秉璿以昧於禮學辭不獻議奉旨大臣之議如此以親行別奠磨鍊
上慟悼后不已語及輒汪然淚落見奩匜之屬嘆嗟摩挲不忍去手有一宦寫切己者一人姓名拉置后奩具中上閱之顧曰此何人緣何錄之在此掩抑對曰媽媽在時訪老奴守令材老奴敢以此進媽媽手藏之因變故不果用上曰有是乎悲夫即除其人郡守其追念之切類此每朔望必親撰文以祭人比之恭愍王之哭元公主
十月?冬十月令中外臣庶勿釋大行王后服以待虞卒時已當祥期之月而前旣未葬而未練今不可祥之而除服故收議大臣儒臣禮卿金奎弘上請詢疑禮盖從上旨也上復命大臣儒賢獻議奉朝賀金炳國領中樞申應朝特進官沈舜澤病未獻議議政金炳始辭以情悰惶蹙不獻議奉朝賀宋近洙以爲第按喪服小記久不葬條惟主喪不除註主喪謂子於父母臣於君而旣無齊斬之別則今此廷臣朞制與他朞大功之朞恐或有異伏乞商確而處之臣不敢有隱妄進瞽見汰哉甚悚特進官趙秉世以爲春秋之不書葬書葬各有其義而胡氏宋儒也集傳之服不除無時而終事果的知其行於當世而有此註說歟喪服小記有曰久而未葬者惟主喪者不除其餘以麻終月數而除喪則已漢石渠禮議又曰除喪服未葬者皆至葬反服庶人亦如之聖經禮說之所載雖如此係是王朝罕有之變禮則以臣朽昧不敢臆對特進官鄭範朝以爲謹按喪服小記曰久而不葬者惟主喪者不除其餘以麻終月數者除喪則已主喪不除已有禮臣之陳疏確引而以臣民除服事今有請詢矣春秋胡民傳有云不書葬則服不除無時而終事者此明其不書葬之義而旣無節文之詳論惟禮之麻終月數註曰期以下服麻以至月數足而除不待主人葬後之除也其服必收藏以竢送葬漢石渠禮議曰以麻終月數者已除喪服至葬返服庶人爲國亦如之此皆未葬先除者也今此王朝罕有之變禮臣何敢妄論乎前祭酒宋秉璿辭以懵陋不獻議於是上命更詢於金炳始炳始以爲若春秋不書葬魯史所以諱之也胡氏傳有云服不除無時而終事者似或可据而旣無制節之指的未有經旨之著見惟喪服小記久而不葬主喪不除服註云朞以下服麻至月數足除而其服必收藏以竢送葬又開元禮久而不葬者惟主喪不除其餘皆終月數除之至葬乃反其服虞則除之今此變禮以臣諛陋昏聵不敢質對奉旨觀此諸議俱無定的而宋奉朝賀與他朞功有異之論其於經旨禮疑亦未必無据臣民服制其待虞卒除之上於后之喪欲隆其禮無已少伸悲哀之情故蔑聖經咈輿論力行三年之制此貽譏千古之事也乃諸臣媕婀敷陳不過微露其意而無一人正論以折之者若宋秉璿則所謂一世宗儒而噤不出聲人尤耻之
上待進皇帝位欲葬后以皇后禮故故遲其葬期
十一月十五日詔曰今陰暦十五日旣大行王后追服之暮也朕甚悲悼殯殿將親行別奠一祭禮磨練祭文親撰以下矣百官參又詔曰東宮哀慕之誠于之日而尤當何如哉今陰暦十五日東宮將躬行別奠晝茶禮兼行祭文製下百官入參
(十一月?)明成皇后洪陵
改上純敬王后諡號曰明成陵曰洪陵殿曰景孝諡初擬文成上亦愧其不稱乃從副望
命金永壽撰明成王后諡册金炳始撰哀册鄭範朝撰行狀尹容善撰陵誌
建陽二年一月三日議政府贊政金永壽疏略伏惟我大行王后至仁聖徳史不勝書三紀涵育之功八域先被之化可以百世於戲而遭千萬古未有之變臣民痛冤穹壤靡屆若其闡颺徽烈圖惟永終無憾者惟節惠丕典曁殿寝鴻號而昨冬議定時逆臣弘集主其事輿情至今憤慨惋大行王后明黎靈不昧其肯安而受之乎且其時儀文未備有欠嶺愼於情義尤所萬萬未安伏■陛下特垂鑑燭亟降成命旣令應參諸臣■定三號罔或缺於愼終節文寔情禮兩幸焉批曰昨冬逆臣旣主其愼終舊章無不變亂未可曰無憾朕■悼焉今此老成忠愛之言若是明正大行王后諡號陵號殿號■當議定郷其諒之
詔曰旣有重臣疏請大行王后諡號陵號殿號■爲議定
四日掌禮院奏大行王后諡號陵號殿號吉日令日官推擇則今一月六日爲吉云以孤此日定行乎允之又奏議號時時原任議政政府堂上府部協辧以上館閣堂上本院堂上奏常司一堤調及長同參會議何如允之
六日議政府以大行王后諡號望文成(經天緯地曰文禮樂明具曰成)明成(臨照四方曰明禮樂明具曰成)仁純(施仁服義曰仁中正和■曰純)陵號望洪陵熹陵憲陵殿號望景考正考誠敬上奏竝首望謹依
十日別單洪陵左旋乾亥行龍艮坐坤向大行王后辛亥生忌火日始役來丁酉正月二十五日卯時斬草破土三月初二日未時祠后土同日暁頭先行作甕家同月十一日卯時開金井同月十四日未時穴深四尺五寸用營造尺外梓宮陪進同月二十六日卯時下外梓宮同月二十七日申時啓櫕宮同月二十八日巽時發引四月初四日丑時陵所啓櫕宮同月同日巽時下玄宮同月初五日申時
三月二日召見時原任議政宮内大臣以下(議政金炳始總護使趙秉世特進官鄭範朝宮内府大臣李戴純掌禮院卿金宋漢弘文館大學士金永壽侍講尹容善兼掌禮李容善)上曰今日召接卿等以大行王后諡號■議事也列聖朝諡字相同爲十餘次然今番文成二字與正宗諡字相同以近代故終有所未安■欲以副望爲定卿等之意何如炳始等曰今令伏奏下教寔出於精微聖意列聖朝諡字疉用雖多己例終有所未安如是改定臣不勝欽仰矣秉世曰諡字非不好矣疉用非無己例列聖意終渉如何如是改定不勝欽仰矣
詔曰旣詢于時原任議政禮堂矣大行王后諡號望單子以副望謹依又詔曰表石大字篆文書寫官總護使爲之
議政府議政金炳始以臣等伏奏勅旨大行王后諡號原單子判付中以副望勅付籖書入之意謹奏允之
大行王后諡號改望明成(照臨四方曰明禮樂明具曰成)
四日命大行王后誌文製述官閔泳煥改銘旌書寫官李戴純
光武元年九月十七日召見時原任議政參政贊政宮内大臣閣臣春桂坊大行王后再忌辰後承候也
十月十二日行告天地祭王太子陪參禮畢議政府議政沈舜澤率百官跪奏曰告祭禮成請旣皇帝位■臣扶擁至旣位壇金椅上坐舜澤進十二章■冕加于聖躬仍奉進璽實上姥再三黽勉旣皇帝位册王后閔氏爲皇后册王太子爲皇太子舜澤率百官鞠躬三舞蹈三叩頭山呼萬歳山呼萬歳再山呼萬萬歳
二十七日詔曰今陰暦十五日旣大行皇后追服之再暮也朕甚悼焉當親行別奠依祭禮磨練祭文親撰以下矣百官入參又詔曰東宮哀慕何日不然而況値追服再暮之日乎今陰暦十五日躬別奠晝茶禮兼行俾伸至情祭文東宮製下矣又詔曰山陵祭祭需肉種價六千両内下矣自宮内府知委擧行柴炭依庚寅年例磨練亦令劃送
二十八日二十八日甲申塟明成皇后于洪陵行九虞初上欲壯后陵制遣人淸國南京畵大明高皇后孝陵以進見其堦墄欄楯皆文玉雕鏤計我國庫一年經入之數尙不及什一之費遂已之強從省約然前後糜費巨億爲國朝山陵之冠祭肉價至六千兩[食+高]轝錢六萬二千餘兩轝軍七千人燈籠除例備外加列一千一百雙守陵復戸一百五結他物稱是不可悉記上親詣皇堂叩地慟絶凍淚纍纍群臣以觸寒損攝迭諫終不聽
※出典:李朝実録 第55冊 学習院東洋文化研究所編
※ハングルの部分は、□とした。
※黄色部分は梅泉野録から。日付のずれなどから、史料としての信憑性に問題があるが、参考として。

以上からも、1895年11月16日に退鮮した井上が諡号どころか復位にすら影響を及ぼせる行動を取れたとは考えがたい。

 では、前掲書における出典は何なのか。前掲書では出典資史料の一覧は巻末に掲載されているものの、引用箇所は非掲載のため、著者ご本人に確認を行ったところ電話にて大変ご丁寧に回答をいただいた。篤く感謝と御礼を申し上げる。その回答によると件の出典は「葛生能久『東亜先覚志士記伝』(上) 黒竜会出版部 1935」閔妃事件の項との事。だが、pp.511〜の該当項には根拠となる記述は見受けられず、いささかでも近い記述を探すとしても、以下程度しかない。

内閣改造後金總理は大院君の前に伺候して、閔妃の爲めに速に國喪を發せられるやう言上したが、大院君は『王妃は廢して庶人となすつもりであるから國喪を發するには及ばぬ』といつて斥けた。思慮の周密な金宏集が『御意にあれど。それは大君主陛下に對しても餘りに無禮であり、世評のほども思はねばならぬから重ねて御賢慮の程を願ひ奉る』と諌めたので『然らば貶めて嬪となすに止めよう。國喪を發するには及ばぬ』といつて庶人の取扱ひをなすことだけは思ひ止つたのであつた。斯うて大院君は自ら執政となつて再び威望を振ふことゝなり、先づ鍮告を發して人心の安定を圖り、さらに李太王に迫つて閔妃廢后の詔令を發めんとし、大臣をして李太王にその意を通ぜさせた。*2

 電話での会話故、著者ご本人が勘違いされた可能性はあるが、現時点では井上の進言の根拠史料は見出せていない状態であり、迂闊な引用は避けるべきであろう。  また、同書は他にも『東亜先覚志士記伝』に拠るところが多く有るも、同書は以下の様に、先覺志士の顕彰を主たる目的の一つとする書物である。

一、本巻に収むる所は明示初年より日露戰役前後に亙る期間に於ける我が國先覺志士の東亞問題に活躍盡瘁したる事跡の一班を叙述せるものにして、主たる目的は其の隱功を顯彰すると共に東亞問題の變遷推移を詳にし、東亞經綸の精神を闡明するに努めたるを以て、之を東亞經綸物語と稱するも不可なきに似たり。*3

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よって、史料としての利用には一定の注意を要するべきであろう。


*1 同書は「名越二荒之助『日韓2000年の真実』国際企画、1997年」の改定、改題。
*2 「葛生能久『東亜先覚志士記伝』(上) 黒竜会出版部 1935」pp.535-536
*3 「葛生能久『東亜先覚志士記伝』(上) 黒竜会出版部 1933」凡例 pp.1

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Last-modified: 2006-10-30 (月) 19:32:48 (4307d)